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2012.03.20

OSN073岡田と都市計画

笠原敏郎は、岡田が都市計画法の制定(1919年)に功績があったと書いている。
かつて建築学会は東京市から委嘱されて建築條例案を作成した(1913年)のだが、「闇から闇へ葬られた様な形」となっていた。

岡田君は非常に憂慮して大正4年建築條例実施促進の運動を起すべく、建築学会に建議案を提出したのであつた。学会は君の意見を容れて実行委員会を設置することゝなり君は其幹事となつて、それ以来、或は政府当局を説き、或は議会に建議し、或は輿論に訴ふるなど、不断の努力をつゞけた甲斐あつて、遂に内務省に都市計画調査会を設置せらるゝ機運となり、愈大正8年に都市計画法並に市街地建築物法案が議会に提出せられたときなどは、学会の実行委員は両院の特別委員を歴訪して其通過を図るなど、非常な努力をしたものであるが、是等の画策の中心となつて働いたものは君であつた。
越沢明氏の一連の都市計画史などを読んでも、岡田のことは何も書いてないが、笠原は、佐野利器・内田祥三とともに市街地建築物法案を起草した人物だから、発言には重みがあるだろう。
岡田は、親友の鳩山一郎(政友会)と協力し、制定運動を進めたとも言われる。
後に岡田が逝去(1932年)した際、勲四等を授けられたが、これも都市計画法制定に対しての功績が認められたためである。

<経過> 
●1906年(明治39年)、尾崎行雄東京市長から建築学会に建築條例案の検討が依頼される。(おそらく当時進んでいた市区改正事業と関連があるのだろう)
以後、6年半の歳月をかけて、海外の法規を参考に、條例案をまとめた。(岡田は直接関与はしていないと思う) 
●1913年(大正2年)、「東京市建築條例案」を提出。東京市から報酬として5000円寄贈された。

●1915年(大正4年)、建築学会の「建築法規委員会」開催。以後、毎月数回集まり、各国の法規を比較し、規則案を作成していった(倉庫規則、病院規則など・・・)。メンバーは内田祥三、笠原敏郎、後藤慶二、野田俊彦ら。(岡田は参加していない)
○同年(11月頃?)、岡田が建築学会に「建築條例実施に関する意見書」を提出した。(内容は未確認だが、「建築世界」掲載の論文と同旨か?)
○同年12月、岡田の建議に基づく「建築條例実施に関する意見書を調査する特別委員会」が開かれた。出席者は中條精一郎、岡田、田島せい造(?)、中村伝治、矢橋賢吉(?)、清水仁三郎。

○1916年1月1日、大阪朝日に岡田の「都市計画と建築條例」掲載。1月11日-14日国民新聞に「都市と建築」掲載。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にあり)
○同月、建築学会の通常総会で「建築條例実行委員」として、中條、大江新太郎、岡田、田島、中村達太郎、中村伝治、矢橋、山下啓次郎、佐藤功一、佐野利器、滋賀重列、清水の12名が決まる。
(後に、実業家の藤原俊雄を特別委員に任命、笠原、長野宇平治らも委員に加わる)

■1917年、片岡安が「同窓建築技術家に告ぐ」を公表。都市計画などの課題に、建築家が大同団結して建築協会を組織することを訴えた。(「近代日本建築学発達史」では、これをきっかけに運動が進んだとする。なお、この年、片岡は都市計画の論文により初めての博士号を取得した。また関西建築協会を設立した。)
■同年10月、佐野、池田宏(内務省、後に初代都市計画課長)、渡辺銕造(東大法学部教授)、藤原俊雄らが「都市研究会」を設立。会長は後藤新平(当時、寺内内閣の内務大臣)。
都市研究会は、主に都市計画の法制化に向けた活動を行った。

○1918年1月 「建築條例実行委員会」の岡田と佐野が協議委員に選定され、日本建築士会(長野宇平治会長)、関西建築協会(片岡安理事長)、都市協会(藤原俊雄幹事)と協議を重ねた。
○同年2月、建築学会と3団体の連名で、内閣総理大臣(寺内正毅)、内務大臣(後藤新平)、陸軍大臣(大島健一)及び政友会幹事長(横田千之助)らに意見書・理由書を提出。(陸軍大臣には防空上の意義を強調した)
また貴族院・衆議院の各議員に同文を印刷し配布した。
なお、佐野の回想には、「関西建築協会、建築学会(私は当時副会長であつた)、都市研究会の3会共同で2法制定につき政府と議会とに運動を開始した。3会の代表として片岡、藤原、私の3人が各省大臣をぐるぐる説き廻つた。」とある。(4団体が連名ということなので、やや不正確では?)
※これを受け、後藤は急遽、都市計画調査会設置のため、追加予算の措置を行った。
■同年5月、内務省に都市計画課を設置。6月に「都市計画調査会」の委員が任命され、7月以降に都市計画法・市街地建築物法の法案が審議された。前者は池田宏、後者は佐野、笠原、内田が起草したもの。
○同年7月、建築学会に「都市計画常置委員会」の設置が決まった。都市計画に関する研究を行う委員会で、岡田も委員を務めた。交通及衛生、地域公園公館及其他公共的施設、建築法規、住居の4部で構成され、岡田は第四部住居に属した。
○同時に、建築條例実行委員会が「都市計画実行委員会」に改称した。都市計画・建築法規の制定運動を行う委員会で、岡田も委員を務めた。

■1919年(大正8年)4月、都市計画法及び市街地建築物法公布。(前者は1920年1月、後者は1920年12月施行)
□同年8月、「都市研究会」(後藤会長)住宅政策委員の第四部居住行政に関する件で、岡田が委員及び主査を務めた。

(丸は建築学会関係、四角はその他。白抜きは岡田に関係のあるものである)

制定の過程を振り返ってみる。まず建築学会の中で岡田の建議に応じて「建築條例実行委員会」が設置された。ただし、当初はそれほど活発な活動はしていないようだ。しかし、あらかじめ組織を作ってあったことで、後の動きがやりやすくなったのではないか。
制定運動のターニングポイントは1918年2月の政府関係者らへの働きかけであろう。建築学会と片岡安や都市研究会の活動などがあいまって、効を奏したのである。

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