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2012.03.19

OSN072関東大震災後の言論

岡田は大正中期に、建築条例(現在の都市計画法・建築基準法に相当)の制定運動を呼びかけた一人である。都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建築基準法の前身)は、いずれも1919年(大正8年)4月に成立し、前者は翌1920年の1月、後者は12月、六大都市において施行された。関東大震災(1923年)の数年前である。
例えば東京都市計画の街路網は1921年に決定されたが、財源問題から未着手のままであった。市街地の街路整備が遅れていたため、震災による被害は拡大することになった。

建築の規制や都市計画事業が進んでいれば、これほどの災害にならなかったのではないか…と岡田は悔やんでいた。

岡田が震災後に著した論考には、「中央公論」に寄せた「帝都再建論」、「死児の齢を算えて」、「自力復興」、「建築雑誌」の「耐震耐火建築」、「太陽」の「建築上より観たる震災並に火災の教訓」などがある。
以下に「中央公論」掲載の論考を紹介したい。

■「帝都再建論」(1923年10月号掲載)
震災後間もなく、9月中旬に書かれたものだろう(10月号の発売は10月10日)。まだ復興計画も固まっていない時期に書かれたこともあり、後から読むと違和感を感じる箇所があるが、ここは歴史的な視点から読むべきところだろう。

まず岡田は今回の大惨害(関東大震災)を「人類始まつてからの大惨事」とし、「東京の都市は近代の都市としては余りに多くの欠陥を有つて居た」、「隅田川に架した主橋までが多く焼け落ちた如きは、文明の都市として語るを憚る程の恥辱」と言う。そして、「建築家は、燃え易き家を造り、壊れ易き館を建てた都市に住んで充分の覚醒を図らなかつた事に対して強い自責を感ぜぬわけには行かない」と述べる。

岡田は「小東京の完成」を提言している。繁栄する東京は「大東京」と言われたが、大きいことを誇るだけでは仕方がない。市街地建築物法でも、大通りの表側は耐火建築とするよう規定されていたのだが、裏側が木造建築のままだったため、結局大きな災害が起こってしまった。そこで、日本橋、京橋などのような東京の中心部では、木造建築を禁止し、鉄筋コンクリート造の耐火建築で造るようにして、小東京を完成させよう、という主張である。
中心部以外は、「大体現状のまゝにして自然の発達に委せるがよい」とも言っているので、「小東京」と言っても、東京そのものを縮小させようというわけではなく、一定の範囲(小東京)に、安全な都市を築こうということである。

その他にも都市計画に関わる道路、公園、交通、橋梁などについて論じているが、東京駅は位置が不適当で、「都市計画の大きな邪魔物」と断じているのは面白い。

震災で大きな被害を受けた横浜について、「(東京湾の)埋立地に新横浜区を設けて横浜市民を遷り住ましめたい」などと言っているのは、現在から見ると乱暴な意見のようである。しかし、これにも背景がある。

幕末に開港し、貿易港として発展した横浜とは別に、東京にも港を造ろうという計画が何度か起こったことがある。
東京の発展にとって、築港は必要なことであった。しかし、衰退をおそれる横浜側の反対は熾烈を極めたという。(東京都公文書館の公式サイトにある「市区改正と品海築港計画」を参照)
また、関東大震災の後、全国から救援物資が届けられたが、横浜港は全壊しており、荷揚げも困難な状態であった。東京の自前の港湾施設が必要だ、とも感じられたのではないだろうか。
読む場合は、こうした当時の情勢を考慮する必要があるだろう。
(震災翌年の1924年3月、日の出埠頭の建設に着手し、1925年に完成。その後も色々と経緯があり、1941年5月、国際貿易港として東京港が開港した)

■「死児の齢を算えて」(1923年11月号掲載)
10月10日にニコライ堂の焼け跡を訪れたこと、17日に帝大の図書館(煉瓦造)が爆破されるのを見たことが書かれており、また「四十九日も近い」(本所の被服廠跡で19日に法要が行われた)とあるから、10月18日頃に書かれたのだろう。

震災で被害を受けた江戸時代から明治時代の名建築について書いている。
ふれられているのは、ニコライ堂、高等師範学校(山口半六設計)、湯島聖堂、帝国大学の工学部(辰野金吾設計)、法学部・文学部(コンドル設計)、図書館、東京美術学校の文庫(小島憲之設計)、帝室博物館(コンドル設計)、虎ノ門の旧工部大学校の諸建築、印刷局本館、開拓使物産館(コンドル設計)、兜町の渋沢邸(辰野金吾設計)、深川の岩崎家別邸(洋館はコンドル設計)、神田明神、銀座煉瓦街などである。

岡田は明治建築について、次のように述べている。

設計者の責任感と真摯、工人の熱心と好奇心、とは再び造る事の出来ない建築を造り出した。夫は人の手で造られたもので、機械の作ったものではなかつた。ラスキンやモリスが推賞した中古の建築と同じ心持の建築ができたのであつた
■「自力復興」(1924年1月号掲載)
末尾に11月28日の日付がある(新年号の発売は12月21日)。
岡田は「強い国民、弱い市民」と書いている。明治維新や日清・日露戦争などに見るように、日本人は強い国民である。しかし、市民としては弱いのではないだろうか、として、封建領主に対抗して都市の自治を獲得してきたヨーロッパの市民と比較している。

市民による復興として、具体的には土地区画整理の問題がある。

都市に於ける区画整理は其土地の利用を増進する事 従つて地価の増す事も多大であるから、(…)此の精神さえ了解熟知したならば、如何なる地主と雖 進んで組合を組織して、其進行に骨折るであらう。
東京帝国大学教授で、当時東京市建築局長を兼務した佐野利器の回想に、区画整理の苦労話がある。
[区画整理に対して] 世間にはゴーゴーたる反対の声があった。駿河台一帯を一番初めにやり、これが出来てからは大分わかってきて、反対はゆるんできた。
反対がおさまってきたのは、市民が次第に区画整理の意義を理解してきた結果なのか、それとも反対しても無駄なようだと諦めがついたためなのか、そのあたりは気になるが、ともかく相当困難な事業だったことは想像がつく。3,119haに及ぶ区画整理は、「世界の都市計画史上、壮挙であり、例のない大規模な既成市街地の大改造」だという。(越沢明「復興計画」)

今日では後藤新平(震災当時の内務大臣、帝都復興院総裁)の業績が高く評価されている。
だが、この論考での岡田は、帝都復興院について厳しい評価をしており、「帝都復興の大なる妨害」とまで言っている。
復興は市民が自ら行うべきなのに、復興院が何でも引き受けたような感を与えたために、市民の依頼心を増してしまったことや、都市計画は内務省の仕事なのに、審議会、復興院、復興評議会などと無用の膨大な組織を作ったこと。
また、後藤はかつて東京市長を務め、都市計画について十分調査していたはずなのに、復興のための都市計画案が中々示されず緩慢であること、復興評議会に付議された計画案がずさんであったこと、などを言っている。

岡田は十数年前に、後藤新平の銅像台座を設計したことがある。後藤の主宰する都市研究会にも加わっていたはずである。その割にはずいぶん遠慮のないことを言うものだと思う。
(この直後、12月27日に皇太子が狙撃される虎ノ門事件が起こり、山本内閣は総辞職。やがて、帝都復興院も廃止となった。)

「自力復興」の後、岡田の都市計画に関する論考はほとんど見当たらないようである。1930年に完成した帝都復興事業について、岡田がどのように評価していたのか、定かではない。

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コメント

後藤新平と言えば、少し前のドラマ「復興せよ!後藤新平と大震災2400日の戦い」。結構、好評だったようです。
http://www.ytv.co.jp/mon/04_hanashiatta/04program.html
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/tvd/1327218159/
後藤は「増税」なんて言ってなかったはず…

投稿: 通行人 | 2012.03.25 15:43

これも見逃しです。
佐野利器などはどのように描かれていたのか、再放送希望です。

投稿: 岡田ファン | 2012.03.27 23:18

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