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2012年3月の14件の記事

2012.03.31

鶴川座

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首都圏に残る唯一の木造芝居小屋の遺構と言われる、川越の旧鶴川座。
ライブがあるというので行ってみました。

明治時代に建てられた芝居小屋で、大正時代になると活動写真も上演されるようになり、戦後には、三波春夫や松竹歌劇団の公演が行われたこともあるとか。
昭和30年代の映画全盛期のにぎわいを過ぎ、自分の記憶(平成初め頃?)では成人映画の映画館になってました。

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(2階席を支える柱、格天井中央にある中心飾り)

その後、衣料品店(確か)やライブハウスなどになったこともありますが、現在は空き家状態。
時々、イベントなどで使われている程度の模様。

舞台下には回り舞台などの貴重な遺構も残っているそうです。
木造の芝居小屋と言えば、明治村の呉服座が近い方で、かなり遠方まで行かないとありません。
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さて、本日のライブステージは、川越出身の阿里耶さんと星野高校バトン部で、ピンクレディーからAKBまでの曲に合わせたダンスや川越にちなんだクイズ、太麺焼きそばの歌など。
芝居小屋が生き返ります。

鶴川座(まとめページ)

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2012.03.29

OSN076看板建築(村木商店)

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「岡田さんの看板建築の隣が駐車場になったよ」と聞いて現地に行ってみると、旧村木商店の側面がよく見える状態になっていた。

2003年頃、国会図書館所蔵の岡田信一郎設計図の中にある「村木商店」について、所在地は神田、という情報が得られ、古い商工名鑑を手がかりに神田須田町に行ってみると、残っていたので驚いたものである。

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デザインでは中々凝った装飾が見られるし、建築家が関わった看板建築というのも珍しい存在だと思う。
是非とも往年の姿を取り戻してほしい物件である。

Muraki

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2012.03.28

OSN075歌舞伎座への補足

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新しい歌舞伎座の建設が進んでいる。劇場部分の屋根も一部見えるようになってきた。
どんな姿になるのやら、不安と一抹の期待。

さて、歌舞伎座や関東大震災あたりの話を続けてきたが、書いたあとになって色々な資料が見つかることも多く、反省しきりである。

歌舞伎座と区画整理」については、「歌舞伎座百年史」資料編と、木村錦花「近世劇壇史 歌舞伎座編」(1936年)を併せて読んでおくべきところ。
後者によると、大谷が「歌舞伎座の建築に斟酌して貰ひたい」と陳情すると、後藤内相から「斟酌は出来ないが、位置の見極めは早くして遣らう」という回答があったとのこと。
木村は1912年に松竹入りし、1928年には取締役に就いている人物だから、内情はよく知っていたはずである。(野田秀樹脚本「研辰の討たれ」は木村の原作をもとにしている)

また、「関東大震災」のところで、岡田の震災当日の行動がわからないと書いたが、どうも歌舞伎座が燃えているところを実際に見ていた(?)らしき文章(1926年)を見つけた。

摶風(破風)造のコンクリート建築の窓から盛んに火を吹く状況も想ひ出される。(…)鉄筋の壁体は無事であつたけれど、舞台上に積上げてあつた建築木材に火が移つて、之れが焼失したため、舞台上の鉄屋根が、飴のやうに捩じくれて、糸のやうにもつれて落ちた、あの恐ろしい姿が浮ぶ。
歌舞伎座が燃え始めたのは1日の午後7時30分頃というが、鎮火したのはいつ頃かよくわからない。
岡田も歌舞伎座炎上の報を聞いて、いてもたってもいられず、木挽町に向かったのだろうか。
疑問は中々尽きない。

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2012.03.27

東京駅と中央郵便局

東京駅の復原工事、東京中央郵便局再整備(一部保存)の工事が進んでいます。
TokyoekiChuyu

東京中央郵便局については、建物を真中で切断し、東京駅寄りの部分を曳屋するという乱暴な(?)工法が取られたようです。どうなるのかと案じていたところ、素人目には一見、切断したこともわからないような仕上がりでした(継ぎ目はありますが)。保存手法そのものには疑問が残りますが、担当者の苦心がしのばれます。

東京駅の方では、駅舎の背面と中央線ホームとの間隔が狭く、工事が難しいという話を聞いていましたが、頑張って裏側も復原をしている様子。

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2012.03.25

OSN074都市研究会

「都市研究会」(後藤新平会長)の話が出てきたが、岡田との関わりで判明しているのは、今のところ次の2点である。

○会の機関誌「都市公論」1919年12月号に会員リストが掲載されており、岡田は特別会員になっている。加入時期は不明。1921年1月のリストにも名前があるが、その後も加入し続けたのかは不明である。
○1919年(大正8年)8月に、都市研究会が都市住宅政策の実行委員を決めるが、岡田は第四部(居住行政に関する件)の委員(主査)になった。(前項。神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)

「都市研究会」は、都市計画をはじめ、都市経営について研究し、一般向けの啓発を行う団体であった。官僚や研究者らが役員に名を連ね、機関誌「都市公論」の発行や講演会など普及活動を行った。
都市研究会に結集したのは、阪谷芳郎、片岡安、関一、内田祥三、笠原敏郎らで、その後も都市計画の推進に努力した人々である。都市計画法、市街地建築物法の起草を行った池田、佐野、笠原、内田をはじめ、法案の審議を行った「都市計画調査会」のメンバーの多くは、都市研究会の会員であった。(参照:越沢明「復興計画」P26-27)

ただ、設立当初の経緯などについて、今一つはっきりしない感じがする。岡田と関係がある団体ということで、少々寄り道にはなるが、いくつか書いておきたい。

●いつ設立されたのか…機関誌「都市公論」(1921.2)に、副会長の内田嘉吉の発言に「大正六年十月に本会創立の相談がございまして翌七年の二月十一日に始めて本会の趣意書を公にした」とある。設立総会などはなかった。
「都市公論」初期の十数号が欠落していることもあって、設立当初の状況がよくわからないのだが、1917年に「創立の相談」ということは、初めはコアメンバー数人の内々の会合(勉強会?)程度だったように思われる。そこで、都市計画の必要性や一般向けの啓発などが語られ、1918年4月の機関誌「都市公論」創刊に向けて態勢を整えていったのだろう。

●会員は…初期の「都市研究会」の規則を見ると、正会員、特別会員、賛助会員の別があり、会費は正会員が年4円、特別会員が年10円以上、賛助会員は200円以上を拠出した者である。「都市公論」1年分の定価は4円だから、正会員=定期購読者と考えてよさそうだ。(1919年12月号には、正会員1458名とある)

●事務局は…内務省に事務局が置かれた、とされるが、初期の「都市研究会」の規則や「都市公論」の奥付(1919年12月号)を見ると、会の所在地は「麹町八丁目二十八番地」となっている。これは「都市公論」の編集・発行人でもあった幹事の阿南常一の自宅か?(もっとも、入会申込みは、内務省の池田宏あてに出すことになっていた)

●設立の主体は…越沢明「復興計画」に、「佐野利器(…)池田宏(…)渡辺銕蔵(…)藤原俊雄(…)阿南常一(…)らは、都市研究会を結成し、会長に後藤新平(…)を戴いた」とあり(カッコ内は略歴)、素直に読めば、まず佐野や池田らが中心になって集まった団体のように思える。
だが、後藤が中心になって、周りにブレーンを集めたのではないか、とも想像してしまう。

都市計画法制定の動きが具体化するのは、1918年の都市計画調査会の設置によってである。しかし、調査会設置のための予算を通したばかりの4月、後藤新平は内務大臣から外務大臣に転じてしまう。本野一郎外相が病気で辞任したためである。後藤に代わって内務大臣となったのは、次官の水野錬太郎である。(水野は内務官僚上がりだが、政友会入りしていた)
調査会の活動は7月にスタートするが、9月には米騒動のため寺内内閣は倒れ、後藤も大臣職を離れる。政友会の原敬が首相となり、内務大臣は床次竹二郎に代わった。(床次も内務官僚上がりで、政友会に入党していた)
都市計画法が成立するのは床次内相時代である。
このように内務大臣のポストは1年ほどの間に、後藤、水野、床次と変わったが、後藤は都市研究会の会長を務めていたため、一貫して都市計画の問題に関わることになった(もちろんその後も)。

事前にここまで見通して都市研究会を作ったわけではないだろう。少なくとも、1918年4月に内務大臣を交代する際に、後藤が引続き会長職に留まったことで、都市計画の推進に大きな役割を果たすことができたのかもしれない。

後藤の主な経歴(1916年以降) ※後藤記念館の公式サイトに略年譜がある。
・内務大臣兼鉄道院総裁(寺内内閣1916.10~1918.4)
・外務大臣(寺内内閣1918.4~同.9)
・東京市長(1920.12~1923.4)
・内務大臣兼帝都復興院総裁(山本内閣1923.9~1924.1)

(貴族院議員…1903年に勅選され、1929年に逝去するまで務めた)
(都市研究会会長…後藤の逝去後は歴代の内務大臣が務めたとのこと)

●会の活動は…前述のように、機関誌の発行、講演会の開催がメインだが、その他にも法案の作成まで行っている。
1919年11月の新聞記事に「建物会社法案決定す」とあり、都市研究会・都市住宅政策実行委員の池田宏、渡辺鉄蔵、佐野利器らが「公共建築株式会社法案」を立案し、委員総会で決定したという。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にデータあり)
例の実行委員のうち、第三部(住宅の建築に関する件)による仕事であろう。内容は、各都市に土地開発・建築を行う会社(例:東京市公共建築株式会社)を設置しようというもので、住宅公団のようなイメージだろうか。

■付記
似たような名称の団体に「都市協会」がある。藤原俊雄が両者に関わっているのもややこしい。
当時の新聞記事から推測すると、1915年頃、藤原あたりが呼びかけ、東京府市の関係者(幹部職員、議員)が中心になって集まった、市政研究の団体だったようである。
1916年4月の都市協会晩餐会で、岡田信一郎が「都市と建築」と題した講演を行っている。1918年には、建築学会、日本建築士会、関西建築協会と連名で、都市計画の法制化に向けた運動を行った(前項)。その後の活動についてはよくわからない。

初期の都市研究会、都市協会については詳しい方のご教示を願いたい。

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2012.03.20

OSN073岡田と都市計画

笠原敏郎は、岡田が都市計画法の制定(1919年)に功績があったと書いている。
かつて建築学会は東京市から委嘱されて建築條例案を作成した(1913年)のだが、「闇から闇へ葬られた様な形」となっていた。

岡田君は非常に憂慮して大正4年建築條例実施促進の運動を起すべく、建築学会に建議案を提出したのであつた。学会は君の意見を容れて実行委員会を設置することゝなり君は其幹事となつて、それ以来、或は政府当局を説き、或は議会に建議し、或は輿論に訴ふるなど、不断の努力をつゞけた甲斐あつて、遂に内務省に都市計画調査会を設置せらるゝ機運となり、愈大正8年に都市計画法並に市街地建築物法案が議会に提出せられたときなどは、学会の実行委員は両院の特別委員を歴訪して其通過を図るなど、非常な努力をしたものであるが、是等の画策の中心となつて働いたものは君であつた。
越沢明氏の一連の都市計画史などを読んでも、岡田のことは何も書いてないが、笠原は、佐野利器・内田祥三とともに市街地建築物法案を起草した人物だから、発言には重みがあるだろう。
岡田は、親友の鳩山一郎(政友会)と協力し、制定運動を進めたとも言われる。
後に岡田が逝去(1932年)した際、勲四等を授けられたが、これも都市計画法制定に対しての功績が認められたためである。

<経過> 
●1906年(明治39年)、尾崎行雄東京市長から建築学会に建築條例案の検討が依頼される。(おそらく当時進んでいた市区改正事業と関連があるのだろう)
以後、6年半の歳月をかけて、海外の法規を参考に、條例案をまとめた。(岡田は直接関与はしていないと思う) 
●1913年(大正2年)、「東京市建築條例案」を提出。東京市から報酬として5000円寄贈された。

●1915年(大正4年)、建築学会の「建築法規委員会」開催。以後、毎月数回集まり、各国の法規を比較し、規則案を作成していった(倉庫規則、病院規則など・・・)。メンバーは内田祥三、笠原敏郎、後藤慶二、野田俊彦ら。(岡田は参加していない)
○同年(11月頃?)、岡田が建築学会に「建築條例実施に関する意見書」を提出した。(内容は未確認だが、「建築世界」掲載の論文と同旨か?)
○同年12月、岡田の建議に基づく「建築條例実施に関する意見書を調査する特別委員会」が開かれた。出席者は中條精一郎、岡田、田島せい造(?)、中村伝治、矢橋賢吉(?)、清水仁三郎。

○1916年1月1日、大阪朝日に岡田の「都市計画と建築條例」掲載。1月11日-14日国民新聞に「都市と建築」掲載。(神戸大学附属図書館の新聞記事文庫にあり)
○同月、建築学会の通常総会で「建築條例実行委員」として、中條、大江新太郎、岡田、田島、中村達太郎、中村伝治、矢橋、山下啓次郎、佐藤功一、佐野利器、滋賀重列、清水の12名が決まる。
(後に、実業家の藤原俊雄を特別委員に任命、笠原、長野宇平治らも委員に加わる)

■1917年、片岡安が「同窓建築技術家に告ぐ」を公表。都市計画などの課題に、建築家が大同団結して建築協会を組織することを訴えた。(「近代日本建築学発達史」では、これをきっかけに運動が進んだとする。なお、この年、片岡は都市計画の論文により初めての博士号を取得した。また関西建築協会を設立した。)
■同年10月、佐野、池田宏(内務省、後に初代都市計画課長)、渡辺銕造(東大法学部教授)、藤原俊雄らが「都市研究会」を設立。会長は後藤新平(当時、寺内内閣の内務大臣)。
都市研究会は、主に都市計画の法制化に向けた活動を行った。

○1918年1月 「建築條例実行委員会」の岡田と佐野が協議委員に選定され、日本建築士会(長野宇平治会長)、関西建築協会(片岡安理事長)、都市協会(藤原俊雄幹事)と協議を重ねた。
○同年2月、建築学会と3団体の連名で、内閣総理大臣(寺内正毅)、内務大臣(後藤新平)、陸軍大臣(大島健一)及び政友会幹事長(横田千之助)らに意見書・理由書を提出。(陸軍大臣には防空上の意義を強調した)
また貴族院・衆議院の各議員に同文を印刷し配布した。
なお、佐野の回想には、「関西建築協会、建築学会(私は当時副会長であつた)、都市研究会の3会共同で2法制定につき政府と議会とに運動を開始した。3会の代表として片岡、藤原、私の3人が各省大臣をぐるぐる説き廻つた。」とある。(4団体が連名ということなので、やや不正確では?)
※これを受け、後藤は急遽、都市計画調査会設置のため、追加予算の措置を行った。
■同年5月、内務省に都市計画課を設置。6月に「都市計画調査会」の委員が任命され、7月以降に都市計画法・市街地建築物法の法案が審議された。前者は池田宏、後者は佐野、笠原、内田が起草したもの。
○同年7月、建築学会に「都市計画常置委員会」の設置が決まった。都市計画に関する研究を行う委員会で、岡田も委員を務めた。交通及衛生、地域公園公館及其他公共的施設、建築法規、住居の4部で構成され、岡田は第四部住居に属した。
○同時に、建築條例実行委員会が「都市計画実行委員会」に改称した。都市計画・建築法規の制定運動を行う委員会で、岡田も委員を務めた。

■1919年(大正8年)4月、都市計画法及び市街地建築物法公布。(前者は1920年1月、後者は1920年12月施行)
□同年8月、「都市研究会」(後藤会長)住宅政策委員の第四部居住行政に関する件で、岡田が委員及び主査を務めた。

(丸は建築学会関係、四角はその他。白抜きは岡田に関係のあるものである)

制定の過程を振り返ってみる。まず建築学会の中で岡田の建議に応じて「建築條例実行委員会」が設置された。ただし、当初はそれほど活発な活動はしていないようだ。しかし、あらかじめ組織を作ってあったことで、後の動きがやりやすくなったのではないか。
制定運動のターニングポイントは1918年2月の政府関係者らへの働きかけであろう。建築学会と片岡安や都市研究会の活動などがあいまって、効を奏したのである。

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2012.03.19

OSN072関東大震災後の言論

岡田は大正中期に、建築条例(現在の都市計画法・建築基準法に相当)の制定運動を呼びかけた一人である。都市計画法(旧法)と市街地建築物法(建築基準法の前身)は、いずれも1919年(大正8年)4月に成立し、前者は翌1920年の1月、後者は12月、六大都市において施行された。関東大震災(1923年)の数年前である。
例えば東京都市計画の街路網は1921年に決定されたが、財源問題から未着手のままであった。市街地の街路整備が遅れていたため、震災による被害は拡大することになった。

建築の規制や都市計画事業が進んでいれば、これほどの災害にならなかったのではないか…と岡田は悔やんでいた。

岡田が震災後に著した論考には、「中央公論」に寄せた「帝都再建論」、「死児の齢を算えて」、「自力復興」、「建築雑誌」の「耐震耐火建築」、「太陽」の「建築上より観たる震災並に火災の教訓」などがある。
以下に「中央公論」掲載の論考を紹介したい。

■「帝都再建論」(1923年10月号掲載)
震災後間もなく、9月中旬に書かれたものだろう(10月号の発売は10月10日)。まだ復興計画も固まっていない時期に書かれたこともあり、後から読むと違和感を感じる箇所があるが、ここは歴史的な視点から読むべきところだろう。

まず岡田は今回の大惨害(関東大震災)を「人類始まつてからの大惨事」とし、「東京の都市は近代の都市としては余りに多くの欠陥を有つて居た」、「隅田川に架した主橋までが多く焼け落ちた如きは、文明の都市として語るを憚る程の恥辱」と言う。そして、「建築家は、燃え易き家を造り、壊れ易き館を建てた都市に住んで充分の覚醒を図らなかつた事に対して強い自責を感ぜぬわけには行かない」と述べる。

岡田は「小東京の完成」を提言している。繁栄する東京は「大東京」と言われたが、大きいことを誇るだけでは仕方がない。市街地建築物法でも、大通りの表側は耐火建築とするよう規定されていたのだが、裏側が木造建築のままだったため、結局大きな災害が起こってしまった。そこで、日本橋、京橋などのような東京の中心部では、木造建築を禁止し、鉄筋コンクリート造の耐火建築で造るようにして、小東京を完成させよう、という主張である。
中心部以外は、「大体現状のまゝにして自然の発達に委せるがよい」とも言っているので、「小東京」と言っても、東京そのものを縮小させようというわけではなく、一定の範囲(小東京)に、安全な都市を築こうということである。

その他にも都市計画に関わる道路、公園、交通、橋梁などについて論じているが、東京駅は位置が不適当で、「都市計画の大きな邪魔物」と断じているのは面白い。

震災で大きな被害を受けた横浜について、「(東京湾の)埋立地に新横浜区を設けて横浜市民を遷り住ましめたい」などと言っているのは、現在から見ると乱暴な意見のようである。しかし、これにも背景がある。

幕末に開港し、貿易港として発展した横浜とは別に、東京にも港を造ろうという計画が何度か起こったことがある。
東京の発展にとって、築港は必要なことであった。しかし、衰退をおそれる横浜側の反対は熾烈を極めたという。(東京都公文書館の公式サイトにある「市区改正と品海築港計画」を参照)
また、関東大震災の後、全国から救援物資が届けられたが、横浜港は全壊しており、荷揚げも困難な状態であった。東京の自前の港湾施設が必要だ、とも感じられたのではないだろうか。
読む場合は、こうした当時の情勢を考慮する必要があるだろう。
(震災翌年の1924年3月、日の出埠頭の建設に着手し、1925年に完成。その後も色々と経緯があり、1941年5月、国際貿易港として東京港が開港した)

■「死児の齢を算えて」(1923年11月号掲載)
10月10日にニコライ堂の焼け跡を訪れたこと、17日に帝大の図書館(煉瓦造)が爆破されるのを見たことが書かれており、また「四十九日も近い」(本所の被服廠跡で19日に法要が行われた)とあるから、10月18日頃に書かれたのだろう。

震災で被害を受けた江戸時代から明治時代の名建築について書いている。
ふれられているのは、ニコライ堂、高等師範学校(山口半六設計)、湯島聖堂、帝国大学の工学部(辰野金吾設計)、法学部・文学部(コンドル設計)、図書館、東京美術学校の文庫(小島憲之設計)、帝室博物館(コンドル設計)、虎ノ門の旧工部大学校の諸建築、印刷局本館、開拓使物産館(コンドル設計)、兜町の渋沢邸(辰野金吾設計)、深川の岩崎家別邸(洋館はコンドル設計)、神田明神、銀座煉瓦街などである。

岡田は明治建築について、次のように述べている。

設計者の責任感と真摯、工人の熱心と好奇心、とは再び造る事の出来ない建築を造り出した。夫は人の手で造られたもので、機械の作ったものではなかつた。ラスキンやモリスが推賞した中古の建築と同じ心持の建築ができたのであつた
■「自力復興」(1924年1月号掲載)
末尾に11月28日の日付がある(新年号の発売は12月21日)。
岡田は「強い国民、弱い市民」と書いている。明治維新や日清・日露戦争などに見るように、日本人は強い国民である。しかし、市民としては弱いのではないだろうか、として、封建領主に対抗して都市の自治を獲得してきたヨーロッパの市民と比較している。

市民による復興として、具体的には土地区画整理の問題がある。

都市に於ける区画整理は其土地の利用を増進する事 従つて地価の増す事も多大であるから、(…)此の精神さえ了解熟知したならば、如何なる地主と雖 進んで組合を組織して、其進行に骨折るであらう。
東京帝国大学教授で、当時東京市建築局長を兼務した佐野利器の回想に、区画整理の苦労話がある。
[区画整理に対して] 世間にはゴーゴーたる反対の声があった。駿河台一帯を一番初めにやり、これが出来てからは大分わかってきて、反対はゆるんできた。
反対がおさまってきたのは、市民が次第に区画整理の意義を理解してきた結果なのか、それとも反対しても無駄なようだと諦めがついたためなのか、そのあたりは気になるが、ともかく相当困難な事業だったことは想像がつく。3,119haに及ぶ区画整理は、「世界の都市計画史上、壮挙であり、例のない大規模な既成市街地の大改造」だという。(越沢明「復興計画」)

今日では後藤新平(震災当時の内務大臣、帝都復興院総裁)の業績が高く評価されている。
だが、この論考での岡田は、帝都復興院について厳しい評価をしており、「帝都復興の大なる妨害」とまで言っている。
復興は市民が自ら行うべきなのに、復興院が何でも引き受けたような感を与えたために、市民の依頼心を増してしまったことや、都市計画は内務省の仕事なのに、審議会、復興院、復興評議会などと無用の膨大な組織を作ったこと。
また、後藤はかつて東京市長を務め、都市計画について十分調査していたはずなのに、復興のための都市計画案が中々示されず緩慢であること、復興評議会に付議された計画案がずさんであったこと、などを言っている。

岡田は十数年前に、後藤新平の銅像台座を設計したことがある。後藤の主宰する都市研究会にも加わっていたはずである。その割にはずいぶん遠慮のないことを言うものだと思う。
(この直後、12月27日に皇太子が狙撃される虎ノ門事件が起こり、山本内閣は総辞職。やがて、帝都復興院も廃止となった。)

「自力復興」の後、岡田の都市計画に関する論考はほとんど見当たらないようである。1930年に完成した帝都復興事業について、岡田がどのように評価していたのか、定かではない。

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2012.03.16

OSN071関東大震災後の仕事

鎌倉では東京よりひどい揺れと津波による大きな被害があった。
岡田が設計した鎌倉の別荘は、他の建物が倒壊する中でも無事であったので、岡田の評価が一躍高まった、という話がある。

岡田信一郎君が鎌倉に新築した別荘の洋館はアタリ一面崩壊したマン中にビクともせずに立つてゐる。流石は岡田さんだと早くも設計依頼者が殺到して目の廻る忙しさだ、府から、市から会社から、個人から現存建築の健康診断を依頼される。朝から夜まで引張凧でヘト/\に疲れ乍ら、俺も医者の仲間入りして慈善行為をやつてゐるよと大気焔だ(中央美術}
もっとも、同じ鎌倉でも、米山梅吉別邸は煉瓦造の煙突部分が崩れてしまった。これは施工者の竹中工務店が部材を活かして再建したということである。
Nikorai
別荘が無事だったせいばかりではないだろうが、実際、岡田の許には、バラックの建設や、被害を受けた大小の建物についての相談など、復興のための仕事が数多く来ていた。(以下、時期は前後する)

○国民新聞社…徳富蘇峰が経営する国民新聞社は銀座にあったが、震災で焼失してしまい、木造バラックで社屋を再建した。
蘇峰は後に自伝の中で感謝の言葉を述べている。

当時青山会館の新築中であったから、その工事に従事する人 [小林富蔵] 、及びその監督者たる、岡田学士の好意によって、案外速やかにもとの焼跡に仮普請も出来た。
○日本赤十字社…日本赤十字社本社では、震災の罹災者のため、本郷区元町の松平伯爵邸内にバラック建ての臨時産院と臨時乳児院を開設した。図面が残っており、岡田の設計によるものらしい。
また、日本赤十字社本社の建物(妻木頼黄設計)は震災で被害を受け、本社は東京府農会の建物に間借りしていた。岡田は本社の復旧工事を担当した。(1926年3月竣工)

○東京美術学校…地震で煉瓦造の文庫(小島憲之設計)が被害を受けた。復旧のための詳細設計を岡田が行った。これをもとに11月15日、正木校長が関係書類を文部省に提出した。

○東京府庁舎…丸の内の府庁舎(妻木頼黄設計)は火災を免れたが、震災による被害を受けていた。10月3日、依頼を受けた岡田は建物を調査し、「建物は頗る危険でもう一度大きな地震でもあれば一堪りもなく潰れてしまふ」と言った。一方、内務省技師の角南隆の意見では、応急の修繕工事で問題ないということだった。(読売新聞)
結局、大がかりな復旧工事が行われることになったようだ。

○東京府知事官邸…芝公園の官邸(久留正道設計)が被害を受け、岡田が復旧工事を担当した。

○東京復活大聖堂(ニコライ堂)…煉瓦造の大聖堂(コンドル設計)は、火災により内部を焼失し、ドーム屋根が崩れ落ちるという大きな被害を受けた。岡田が教会関係者の依頼を受け、現地を訪れたのは10月10日であった。
これも岡田が復旧工事を担当した。(1930年2月竣工)

この他にも、石黒忠悳邸の土蔵修復の相談に乗ったり、バラック建築の設計などを行っていた。

上野の帝室博物館(コンドル設計)は、震災で大きな被害を受け、取り壊されることになったが、岡田は当時行われた座談会で、自分に任せてくれれば、という意味の発言をしている。
11月27日、正木校長と岡田は、博物館の大島総長を訪ね、美術館の敷地について相談した。その後、「大島氏の案内にて(…)博物館本館の震害の程度を視察」した。既に10月末に、爆破する方針が決まっていた。

(画像は建築雑誌447号、ニコライ堂)

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2012.03.13

OSN070関東大震災後の学校

岡田が勤めていた東京美術学校と早稲田大学の地震後の様子を見ておきたい。
どちらの学校もまだ夏休み期間で帰郷していた学生が多かったようだ。

東京美術学校校長・正木直彦の「十三松堂日記」によると、学校そのものの被害は少なかった。

学校より使を以て震災被害の報告あり 文庫小倉庫の屋根瓦全部墜落し建築科煉瓦造教室に多少の亀裂ある外別に損害なしとの事
地震の際、正木自身は文部省にいた。煉瓦の煙突が倒れてきて、テーブルの下にとっさに身を隠して助かったという。危ないところであった。
やがて市内で火災が広がると、上野公園には家を失った多くの人々が集まり、美術学校敷地内でも避難者を受け入れた。学校が再開するのは、11月1日のことである。公式サイトに載っている佐藤道信氏の「関東大震災」が参考になる。

この間、10月1日付で岡田は美術学校の教授に就任した。これは震災の前から話が進んでいたものである。
岡田は東大教授になる積りでいたようで、美術学校では長い間嘱託(講師)のままだった。1923年から1932年に亡くなるまでは、高等官ということになった。

早稲田大学では、煉瓦造の大講堂が崩壊するなどの被害があり、また応用化学実験室の薬品から火災が起こった(多くの学校で、薬品から火災が発生した)。

建築学科3年の有志約20名は、臨時震災調査会として、地震による市内建築物の被害状況を見て回り、後に「早稲田建築学報」誌上で調査報告を行った。
(この調査は、岡田は直接は関わっていないようだ)。
授業は10月11日から再開された。
また震災の影響により、故総長大隈記念事業がしばらく中断した。震災直前に記念大講堂(後の大隈講堂)の設計コンペが行われており、前田健二郎と岡田捷五郎による設計案が1等当選していた。また、図書館(今井兼次設計)が建設中だった。
大隈講堂のコンペについては、後で書きたい。

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2012.03.10

学者町西片、今和次郎展

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文京ふるさと歴史館の収蔵品展「伯爵家のまちづくり-学者町・西片の誕生-」を見てきました。(3月18日まで、公式サイト
最近、福山藩主だった阿部家の史料が文京区に寄贈されたそうです。福山藩の丸山屋敷が明治以降は本邸になり、東大に近いこともあって宅地開発をすることになりました。現在の西片地域で、阿部家の史料には宅地開発の様子に関するものが色々とあるようです。
西片は、伊東忠太や武田五一、金沢庸治など建築家が住んだ町でもあります。

チラシでは武田五一設計の「伽羅橋設計図」が年代不明となってましたが、展示の解説に「明治39年」と書いてありました。から橋(現在の清水橋)は、阿部家が造ったものなので、寄贈された資料中から年代を示す文書が見つかったのかも…。
収蔵品展なので、図録はない模様。
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その後、汐留の今和次郎展へ。
汐留ミュージアム「今和次郎 採集講義 展」(3月25日まで、公式サイト
藤森さんの「建築探偵の冒険」でおなじみ渡辺甚吉邸の家具や食器が展示されてました。(これはなぜか早稲田大学が所蔵している模様)
渡辺家山中湖別荘のCG再現がありました。(これは実施されなかったのか…記憶があやふや)
住宅作品で、鳴海邸、竹浪邸が現存していることが判明したそうです。

今和次郎はジャンパー一筋だったようですが、文化女子短期大学ほかで家政学などを講じていたというのが不思議な感じ。
公式ガイドブックが単行本「今和次郎 採集講義」で出ています。

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2012.03.09

OSN069関東大震災

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災のとき、岡田がどうしていたのか、よくわからない。関東大震災は岡田にとっても大きな転機になる出来事だったはずで、わからないというのは残念である。
…代わりに早稲田大学の同僚・佐藤功一と徳永庸の事例をみておきたい。

佐藤功一の随筆によれば、9月1日は「山の手の自宅」(小石川区指ヶ谷町74番地、現文京区白山)にいた。夜7時頃、帝大法文学教室と図書館の前に立ち、煉瓦造の建物が静かに燃えるのを見たが、手を出せずどうにもできなかった、という。
(自宅から東大は近くなので、燃えているのが見えたか、噂を聞いて見に行ったのだろう)
2日目に「本郷台よりお茶の水橋を神田に出で、丸の内より日本橋、京橋の焼跡を訪ひ」被害の大きさに愕然としたという。(「中央公論」1923年10月及び「太陽」1927年6月)

佐藤功一建築事務所に勤めていた徳永庸の手記があるので、少し詳しく紹介したい。
徳永は、佐藤の自宅2階にある事務所の製図場で仕事をしており、昼食にしようとしたところで地震にあった。
見ると、周囲の家は土煙を上げ、屋根瓦が落ちていった。柳町、掃除町あたりは低地で地盤が悪く、つぶれた家が多かった。表町の方から火災が起こったため、庭に穴を掘って鉄製の更衣箱を入れ、工事中の図面や関係書類を中に入れて土を埋めた。午後2時頃、事務所員は解散した。

その後、徳永は工事中の建物の安否を確認しようと、自動車を呼び止め、まず東京駅へ行った。
佐藤建築事務所の設計により工事中の実業之日本社、読売新聞社、下野新聞社東京支店、帝国興信所を見て回り、無事を確認した。
銀座に引き返すと、新橋方面の火災が大きくなってきた。
自動車を呼び止め、皇居前広場まで行くと、大勢の人が避難していた。警視庁や内務省の建物が炎上しているのが見えた。
自宅(豊多摩郡戸塚、甘泉園の隣り)に帰ろうと、濠に沿って九段下まで来てみると、神田神保町、小川町、三崎町あたりは火の海になっていた。飯田町一帯も火の海で、靖国神社の裏から神楽坂、矢来町、山吹町を通って早稲田大学を抜け、ようやく帰宅したのは夜11時頃だった。
余震をおそれ、数日間、屋外で寝ていた。

徳永の自宅には妻と、下宿の苦学生2人がいたが、ちょうど米がなくなってしまい、調達するのに大変苦労した。
東京市中の火事は三昼夜燃え続け、4日目にようやく収まった。
翌日(5日)、指ヶ谷町の事務所が無事であることを確認した後、水道橋、お茶の水あたりから、浅草付近と様子を見て回った。浅草のひょうたん池は水面が見えないほど死体で一杯であった。

6日に、前橋で銀行建築の監督をしていたF君が、現金と米を持てるだけ持って事務所に戻ってきた。これによって、7日から震災の復興や、被害調査に向かって活動することができた。(「徳永庸追想録」)

小石川や戸塚と、岡田の自宅・事務所があった神楽町は同じ山の手で、火災による被害が比較的少なかった点も共通すると思うので、(もちろん個々に状況は異なるだろうが)示唆するところが多いと思う。

大震災の前後、岡田がどのように過ごしていたのかは(今のところ資料が見当たらず)、想像するしかないが、1日は自宅にいた可能性が高いように思う。
(そうでなければ、建設中の工事現場にいたか、上野の日本美術院展覧会場あたりにいたか、それとも鎌倉の別荘あたりにいたか)

地震の後は、親族や学校関係、知人らの安否が気がかりなのはもちろんのこと、自分が手がけた建設現場が気になったに違いない。
当時建設中の主な工事は、次のようであった。

●歌舞伎座(大林組施工) 躯体が既にでき上がり、内装工事にかかるところであった。(前出)
●青山会館(小林組施工) 徳富蘇峰が建設する公会堂で、基礎工事を行っていた。
●日本赤十字社参考館(清水組施工) 芝の日赤本社敷地内の資料館で、躯体ができたところであった。(「早稲田建築学報」に記事あり)
●鳩山一郎邸(施工者不明) 音羽の鳩山邸では、基礎工事をしているところだったという。

なお、次のようなエピソードを聞いたが、本当だろうか(出典がわからない)。

震災の時、信一郎は佐藤功一と街で行き違った。信一郎は一言、「歌舞伎座はこわれなかったよ」と残して、崩れ果てた街に姿を消すのだった。
歌舞伎座は 1日の夜7時30分頃、銀座付近からの猛火によって、内装材が炎上した。歌舞伎座炎上の件は、その日のうちに岡田のもとにも知らせが入ったかもしれない。
佐藤功一と上記の会話を交わしたとすれば、1日当日、東大付近でのことだろうか…?

【付記】
徳永は1887年(明治20年)、福岡生まれ。福岡工業学校で建築を学び、辰野葛西事務所で実習を行い、東京駅の設計に関わる。1909年、早稲田大学高等予科(理工科)に入学、1910年、同大学建築学科に進み、1913年(大正2年)卒業。辰野片岡事務所に入所し、大阪市中央公会堂(原案岡田)を担当する。1917年、早稲田大学建築学教室に奉職(1944年まで)。1919年、佐藤功一を補佐し、佐藤建築事務所を開設。1927年、徳永建築設計事務所を開設。作品に徴古館(1927年)、研究社(1927年)、銀座ビルディング(1931年)など。昭和20年代に福岡銀行の一連の支店を古典様式で設計した。

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2012.03.05

OSN068歌舞伎座と区画整理

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歌舞伎座の建設が、大林組の施工により進んでいた1923年9月1日、関東大震災が起こった。
躯体は既に完成しており、地震による被害はなかったというが、周囲が大火災になったため、内装材用に積み上げてあった桧材に火が付いてしまった。鉄骨で組んであった屋根の小屋組も熱で曲がってしまう状態で、工事は中断せざるを得なくなった。(このあたり詳しくは「歌舞伎座百年史」を参照)

この頃のことを、大谷竹次郎が次のように回想している。(1930年の三宅周太郎との対談)

私は震災直後に内務大臣だった後藤新平さんの所へ駈け込んでよく頼んだ。本当はあの大建築だから少しは区画整理にかゝりさうなんですから。それを兎に角東京の名物にするから、何とか焼けた形の儘で建築を許してくれと、私は後藤さんに縋つて頼んだ。流石に後藤さんで、それを黙認してくれた。そのお蔭で今の歌舞伎座が出来たんです。
この話は本当なのか、少々検討してみたい。

震災後、復興を担う帝都復興院が設けられ、内務大臣の後藤新平が総裁を兼務することになった。さっそく10月には帝都復興院による復興計画の原案がまとまり、政府原案として確定した。

しかし、政府原案には激しい反対が起こった。先鋒は伊東巳代治(枢密顧問官)で、11月に開催された帝都復興審議会で「所有権を奪うもの」「日本の財政基盤を危うくするもの」などと政府原案に対して厳しい批判を行った。
伊東の主張を入れた修正案が作られ、この結果、幹線道路の計画は縮小されることになった。(例:靖国通りは幅員24間から20間に、浅草通りは20間から18間に縮小)

歌舞伎座前面の電車通り(晴海通り)は、計画が縮小されたとはいえ、従来よりも広がることになった。また、土地区画整理事業の実施により、歌舞伎座の敷地も何割分か削減された。
だが、政府原案のまま決まっていたら、電車通りはさらに広い道路となっており、建設計画が大きな影響を受けることは免れなかったかもしれない。この点で伊東巳代治は、歌舞伎座の工事再開に貢献したとも言える(?)。
(伊東は銀座の大地主だったという)

※晴海通りの幅員は、復興計画により広げられた(10間→18間)が、図面を見ると、歌舞伎座側は広がっていないようである(「中央区沿革図集」)。これは後藤の配慮による結果なのだろうか?さらに調べてみたい。

【参考】越沢明「東京の都市計画」、三宅周太郎「俳優対談記」

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2012.03.04

OSN067歌舞伎座の和風意匠

歌舞伎座の和風意匠に関連して補足。

■亀岡式
歌舞伎座の和風意匠のディテールについて、京都府技師の亀岡末吉のデザイン(亀岡式)によく似ているという指摘がある。1919年に刊行された「亀岡図集」は、国会図書館にある岡田の設計図面類の中にも含まれている。(藤岡洋保ほか「岡田信一郎設計の不燃構造和風意匠の建物に見られる伝統表現の方法について」:CiniiにPDF版あり)

■波木井像
岡田信一郎が鉄筋コンクリート造(RC造)で和風を表現したものとして、波木井(南部)六郎実長公銅像がある(身延山の項)。
余り奥行きのない小規模な作品だが、RC造で垂木や組物、蟇股、虹梁など社寺建築の要素を使っており、小林富蔵の施工により、1921年(大正10年)に建設された。歌舞伎座に先行する作品である。

■村上邸
岡田信一郎の住宅作品に、村上喜代次邸(1922年)がある。
紀尾井町にあったもので、近年、渋谷の南平台に移築された。書院造の純和風建築である(隣に洋館を併置)。
藤森照信氏は「桃山バロック様式」と評しているが、村上の遺族から聞いた話として次のように書き記している。(「家の記憶」)

岡田さんは、父に自由に腕を振るわせてもらったことをとても感謝していました。ここでの経験が、歌舞伎座を設計するときとても役に立った、と言ってました。
遺された図面には、大正9年、10年の日付があるから、歌舞伎座の設計を引き受ける直前の仕事ということになる。これも小林富蔵が施工した。

【付記】
(1)Googleで「紀尾井町 南平台」と検索すると興味深いサイトが見つかるが、コメントは差し控える。
(2)旧村上邸のところには、明治時代の住宅部分と、岡田信一郎が設計した住宅部分(和館・洋館)があった。移築されたのは岡田信一郎が設計した住宅の和館部分である。洋館部分はRC造で再現された。
(3)京都の四条大橋東詰にある南座(1929年)は、白波瀬工務店の設計・施工である。歌舞伎座を参考にしたのかもしれないが、白波瀬直次郎がどのような経歴の人物なのか、気になる。

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2012.03.01

OSN066市村座から歌舞伎座へ

歌舞伎座の設計依頼を受けた当時、岡田が設計して完成させた作品としては目ぼしいものがなかった(住宅作品と銅像台座、木造の小千谷小学校程度で、大阪高島屋は建設中)。
劇場建築であれば、経験豊かな建築家が他にいたと思うが(帝国劇場を手掛けた横河工務所など)、なぜ岡田に設計が任されたのであろうか。

当時岡田建築事務所にいた三井道男は、次のように回想している。

なんというひとだったか、脚本をかくひとの話しに、歌舞伎座の設計がきまるときに、だれかが大谷さん [松竹社長の大谷竹次郎] を紹介する席で、 [岡田が] 劇の話から劇場についての話をされたのを聞いたが、実に上手なもので囲りのものも社長も感心してほれぼれしたほどまいってしまったそうです。
「口八丁手八丁」と言われた岡田らしいエピソードだが、この話を三井に伝えた人物の名前がわからないのは何とももどかしい。施主と設計者の初顔合わせという重要な場面に、「脚本をかくひと」が立ち会っていたらしいのである。

この人物は誰か、と自分なりにあれこれ調べてみたところ、可能性がありそうな人物として、小山内薫、あるいは落合浪雄(劇作家)が浮かんできた。
両者とも、かつて市村座に関わり、1921年当時は松竹に関わっていた。

前にも少々ふれたが、岡田は1919年(大正8年)に江戸三座の伝統を引く歌舞伎劇場、市村座の計画案をまとめていた。
(岡田自身にとってはいわば歌舞伎座のスタディとなったと言えるだろう。また、計画案を示すことは、事業主の松竹側に対するアピールになったと思われる。)

岡田が市村座の設計をしていたことは、当時の新聞報道に見当たらないようで、ごく一部の関係者しか知らなかったのではないか。松竹側に岡田を仲介した人物として、小山内、落合あたりがあやしいと思う。

もともと、市村座の場所(二長町)は地の利が悪く、オーナーの田村成義(田村将軍、大田村)は、別の場所に帝国劇場や松竹(歌舞伎座など)をしのぐ大劇場を建設することを念願としていた。だが、1919年頃にはだいぶ弱気になっていたようで、買収話に応じようとする一幕もあった。
一方、息子の田村寿二郎(小田村)は、落合浪雄らの「国民劇場」運動に加わり、吉右衛門、菊五郎ら市村座の俳優を提供しようとしていたらしい。新しく建てる劇場の位置については、芝区田村町や丸の内などいくつかの場所が候補に挙がっていたようだ。
(国民劇場運動には、当時、市村座顧問の小山内薫も関わっていた可能性が高い)

岡田の設計案はこの「国民劇場」に関わるものではないかと思う。
遺されている図面を見ると、芝公園の一郭を想定した計画で、書かれた日付から、1919年10月から12月にかけて設計が進んでいたことがわかる。
田村寿二郎へのインタビュー(都新聞、1919.10.3)では、市村座の株式会社化と、劇場新築の計画について答えている。

慶応出身の同窓が私の為めに心配して大きな資本を募つてモッと便利のいゝ土地へ新しい劇場を建て新しい興行法でかつて見やうといふ話が持上つたのです、親父には愈(いよいよ)話が極まるまで聞かせない筈で居たところへ新聞で発表されてしまつたので黙つて居る訳にも行きませんから親父に打明けて相談しました
親子の間でどうも意志疎通が欠けていたわけだが、それはともかく、この「慶応出身の同窓」とは小林一三ではないだろうか。

小林というと、宝塚歌劇団がまず思い浮かぶが、歌舞伎界の刷新を兼ねてから提言し「国民劇の創出」を唱えていた。要は多人数収容の大劇場を建設し、安い価格で演劇を楽しんでもらおうという構想である。小林自身は宝塚に4000人収容の大劇場を建てているが、震災後の歌舞伎座が2000人規模になったのは、小林の提言に従ったものとも言われる。
小林と市村座のつながりは深かったようで、関東大震災で市村座が焼失した後、宝塚に菊五郎ら市村座の俳優たちを出演させたことがある。

話を戻すが、結局岡田の設計した劇場計画は実現しなかった。劇場の話も進まず、ゴタゴタが続く市村座の状況に、小山内、落合も見切りを付けたようだ。

1921年当時、落合は松竹新劇部の座付作者であった。また、小山内は松竹で映画制作や歌舞伎の演出などに関わっていた。
歌舞伎座が焼失した10月30日は、10月興行が終わり、小山内と土方与志の演出による11月興行「佐倉新絵巻」(池田大伍作)の上演を控えて、準備中という時期だった。

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