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2012.02.16

ONS062高島屋と岡田

大阪店の仕事のほか、岡田と高島屋の間には様々な関わりがあった。

■川勝堅一との縁
1917年、高島屋の川勝堅一が、岡田信一郎から紹介状を書いてもらった話が「日本橋の奇跡」に書いてある(以前の項でも引用)。
紹介状は与謝野寛・晶子夫妻にあてたもので、以来高島屋「百選会」など文化事業面で、与謝野夫妻には大変世話になったという。
(岡田の交友の広さもうかがえるエピソードである。ただ、1917年というのは少々あやしいようでもっと後の時期かもしれない。1921年(大正10年)に、与謝野晶子が高島屋「百選会」のために歌を作っており、それより前のはずである。)

川勝は1892年(明治25年)生まれで京都出身。1908年(明治41年)に京都たかしまや飯田呉服店に入店。1916年に京橋南伝馬町の東京店へ移り、ショーウインドーから店内のディスプレイ、広告まで何でも一人でこなし、やがて広告部長(宣伝部長)となった。その後大阪店支配人、東京・大阪・京都三支店の総支配人、と昇進し、戦後は常務取締役(代表取締役)まで務めた人物である。
川勝は建築にも関心が深く、岡田を師と仰ぎ、様々なことを学んだという。

■平和記念東京博覧会
1922年(大正11年)3月~7月に上野で開催された展覧会である(平和とは第一次世界大戦の終結を指す)。
近代建築史上は、分離派建築会員の設計したパビリオンや、「文化村」のモデル住宅で知られている博覧会だが、岡田ファンとしては、高島屋の展示を忘れる訳にはいかない。
大阪高島屋の建設中の仕事であり、岡田にしてみればちょっとした余技のようなものだろうが。

染織別館内に三越、白木屋、松屋、松坂屋などと並んで高島屋が出展したのは「文化の幸」と題する社交ダンス人形である。展示を担当した川勝堅一によると、「この陳列ケースは建築家岡田信一郎先生によるフランス・ピンク色ルネサンス様式、施工は竹中工務店。ケースの中の広さは約三間半四方、ピアノに寄れる若い令夫人の外、大人ダンス一組、男性は折柄オールバック・女性は耳かくし時代で、小山内薫氏の似顔でオールバックにし、(…)婦人は高島屋の得意先、岡崎慶次郎氏夫人の耳かくし美人(…)」といったものであった。
(川勝は小山内とも親しくしていた)

これが当時は中々好評だったようで、当時の朝日新聞では次のように紹介された。

華麗衆目を驚かすに足る全会場中第一の美観は染織別館である 本館は東京市中著名の呉服店が共同特設したもので(…)中にも構想、調和共に無難で衆目を娯ましめるのは「文化の幸」と題する高島屋の出品だらう
(「平和記念東京博覧会事務報告」に写真が掲載されている)

■歌舞伎座の緞帳
伊東胡蝶園が歌舞伎座(岡田の代表作)の緞帳図案を公募した際に、高島屋図案部が総力を挙げて取り組み、一等当選はじめ多くの入選を獲得し、製作を受注した。

■飯田藤二郎邸
1925年、駿河台四丁目に建てられた飯田藤二郎の邸宅は、岡田が設計した。
藤二郎は1869年(明治2年)生まれで、四代目新七の弟である。欧米諸国を視察し、高島屋飯田(高島屋の貿易部門が独立)の東京支店長、後に社長を務めた。
住宅のスタイルは、2階建のハーフチンバー風洋館と、平屋建の和館を並置したものであった。

■高島屋東京店の復興
京橋南伝馬町の東京店は関東大震災で罹災し、一時、千代田館を借りるなどで営業していた。
元の店舗の位置に木造2階建の店舗を再建することになり、岡田が設計を担当した。1927年(昭和2年)竣工。

なお、本格的な百貨店建築については、その後の課題となっていたが、これは高島屋単独の事業ではなく、日本生命と組んで建設することになった。
(項を改める)

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コメント

南海ビルは好きな建物ですが、長堀店の方は昔の華やかさもなく残念でした。高島屋資料館に長堀店の説明が少しあったと思います。

投稿: 通行人 | 2012.02.22 02:26

高島屋史料館には、長堀店にあったというステンドグラスが残っているそうです。
(小川三知作品では…?)
http://www.takashimaya.co.jp/corp/info/library/

投稿: 岡田ファン | 2012.02.22 22:15

先に白鴎高校のアルモンドタワーに関して質問した者です。

「allumonde」(アルモンド)とは仏語の
「allumer」(光を灯す)と
「le monde」(世界)からなる造語で、
「世界に光を」という意味だそうです。

岡田信一郎先生と、この言葉のつながりをご存知でしたらご教授ください。

投稿: | 2014.06.01 00:01

由来はフランス語でしたか…

岡田信一郎は特にフランス語に堪能という訳ではなさそうですので、岡田というより学校側が名付けたのではないでしょうか。

府の組織にも営繕課があった訳で、なぜ岡田が設計者に起用されたのかも、謎ですね。
岡田自身が学校建築に関して何か語ったこともちょっと思い当たりません。
返答遅くなり失礼しました。

投稿: 岡田ファン | 2014.06.04 01:31

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