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2012.02.13

ONS060大阪高島屋

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大阪の高島屋と言えば、南海電鉄なんば駅(南海ビル)の店舗が思い浮ぶ。1932年に竣工したクラシックなビル(設計久野節)で都市建築の佳品と言えるが、ここで述べるのは、1922年(大正11年)に建てられ、昭和10年代まで使われた岡田信一郎設計によるゴシック様式のビルの方である。
(竣工時は「高島屋呉服店大阪支店」が正式名か)

高島屋呉服店は、1919年(大正8年)8月に株式会社化したのを機に、大阪店を高層ビル化し、本格的な百貨店とすることを企てた。当時の大阪店(心斎橋)は敷地が狭かったため、入札に出ていた長堀橋南詰の旧南区役所跡地を手に入れた(同年11月)。
また、飯田新三郎・細原和一の2名が翌年4月から11月にかけて欧米の百貨店事情の視察に出ている。

岡田が設計を依頼された経緯ははっきりしない。当時の岡田は大阪市公会堂のコンペに当選したことなどで、大阪でも名を知られていたかもしれないが、百貨店のような大規模な作品はまだ手掛けていない時期である。
1919年に心斎橋の大阪店が火災にあったときには、住友の技師、小川安一郎が再建工事を担当しているし、関西建築界で建築家を探すとなれば、岡田には頼まないであろう。

岡田と高島屋の接点を考えてみたのだが…。
創業家、飯田家の中で、岡田と同年代の人物と何かしら接点があったのかもしれない(想像)。
・飯田新太郎…1884年(明治17年)生まれで岡田の1年下。1910年に早稲田商科を卒業。当主・四代新七の子で、建設当時は高島屋の常務取締役。
・飯田直次郎…従来からの呉服店から近代的な百貨店への転換を推進した中心人物。同じく1884年生まれ、1912年に東京帝国大学経済学部を卒業した。前当主・三代新七の子で、当時は高島屋の取締役。1942年に三代目社長に就任した。
川勝堅一という人(後の項で出てくる、後に高島屋の重役になる)の記憶によれば、1917年に岡田に紹介状を書いてもらった時、「私の友人、飯田新太郎君の店の宣伝部で働いておる川勝という人…」という文言があったとのことだ(「日本橋の奇跡」)。ひとまず、飯田新太郎の紹介の可能性あり、ということにしておきたい。

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大阪高島屋は、「地階附7階建、鉄筋コンクリート造タイル張 (延坪数)3,120坪」で、構造設計を内藤多仲が担当した。
起工は1921年5月で、竹中工務店の施工により、1922年(大正11年)9月に竣工し、10月に開店した。

岡田の設計図面では屋上に塔が見えるが、実際には塔は造られなかった。それにしてもなぜゴシック様式を採用したのだろうか。
当時の写真を見ると、まだ昔ながらの町屋風の建物が並ぶ中に、7階建てのビルがひときわ大きくそびえており、さぞ人目をひいたことと思われる。
ちなみに大正期の大阪は、三越が1917年(第1期)・1920年(第2期)、白木屋が1921年、大丸が1922年(第1期)・1925年(第2期)と、次々に高層ビル化していた時期にあたる。
このうち現存するのは大丸(心斎橋筋側の部分)のみである。(御堂筋に面したゴシック様式風の部分は1933年竣工)

「高島屋150年史」によると売場構成は次のとおり。

屋上 演芸場・遊戯場
7階 日用品・大食堂
6階 催し場・文具・雑貨・美術品
5階 洋服・家具服飾品
4階 雑貨・貴金属・装身具
3階 高級呉服
2階 実用呉服
1階 雑貨・化粧品
地階 食料品

現在のデパートとそれほど変わらないようであるが、大きく違うのは下足の扱いである。
「店内は上敷がしきつめてあってお客様は下足を預け 備えつけの赤鼻緒草履をはいて上り 靴の人にはカバーを着せた」(「高島屋135年史」)。長堀店で下足を廃止するのは昭和2年(1927年)3月という。
また、当時の平面図を見ると、1階に広い「御買上品御渡し所」があるので、会計はまとめて1階で行っていたようである。

面白いのは地下食料品売場で、毎朝7時から11時まで新鮮な野菜や魚、肉、乾物などを廉売し、「下駄履きのまゝお出入自由」だったらしい(以前の記事でも紹介)。
だが、平面図を眺めてみても、地下に行く客と、それ以外の客をどうさばいていたのか、今一つよくわからない。詳しい方のご教示をお願いしたい。
(立面図は「図面でみる都市建築の大正」より引用、写真は当時の絵はがき)

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