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2012年2月の9件の記事

2012.02.29

OSN065歌舞伎座(続)

■唐破風の曲線
岡田の弟・捷五郎が、歌舞伎座建設当時の思い出を書いている。

当時としてはこれだけの大きい建物と、且つその細部にわたる桝組その他の細かい部分を造り上げるのに中々の苦心を要したものであつた。殊に正面玄関上の唐破風の如きは、原寸図を描いて現場に掲げ、これを望見して曲線の訂正、左右の均整等々を行なうのであるが、遠くから見ていてその欠点の箇所がわかつても、接近すると何の部分だつたか解らなくなつてしまい、何度か同じようなことを繰り返えしたこともあつた。
屋根の反りは日本建築の命とも言われるが、微妙な曲線を決めるために、(今日的に見れば無駄に見えるかもしれない)努力が現場で重ねられていたのである。

Kbkzp1030891■木村得三郎
1914年(大正3年)に東京美術学校図案科を卒業した木村得三郎という人がいる。岡田の教え子である。卒業後は大林組に入り、自社設計の大阪松竹座(1923年)、先斗町歌舞練場(1927年)、東京劇場(1930年)などを担当した。
この木村が歌舞伎座の設計を手伝ったという話が村松貞次郎の「日本建築家山脈」に書いてある。当時の様子を知る人が「岡田さんは病身であのころはドテラを着ておられ、ほとんど外に出られなかった。大林の木村という人が、だいぶ手伝った」と語っていたという。

歌舞伎座は1922年6月に着工、1923年5月に上棟式を迎えた(9月に関東大震災があり、一時工事が中断)。
大阪松竹座の開場は同年5月で、それまでは木村も忙しい時期だったのではないか。手伝ったとすれば、松竹座の仕事が一段落してからだろうか。

■ドレスデン新劇場
岡田は歌舞伎座の設計にあたって参考にした劇場として、「ドレスデン新劇場」(neue Königliche Schauspielhaus,Dresden)を挙げている。
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有名なゼンパー・オーパー(19世紀建設の国立歌劇場)と紛らわしいが、こちらは1913年に建てられた劇場で、外観はユーゲントシュティル風。(ドイツ語版Wikipedia
当時のドイツでは、劇場建築で舞台装置に様々な革新が行われていたが、中でもこの劇場はホリゾントやシンキング・スライディング・ステージ(沈下すべり舞台)を備え、最新の設備を誇る劇場と評価されていた。
(ちなみに、1945年のドレスデン空襲では大きな被害を受けたが、1948年にいち早く復興した)

シンキング・スライディング・ステージは、日本の回り舞台を立体的にしたようなもの(?)。セットを組んだ舞台を上下に動かし、奈落の下で左右に滑らせるようにしてあり、舞台転換を早く行う仕組みである。

歌舞伎座でこうした設備をそのまま採用した訳ではないだろうが、岡田が海外の情報をよく研究したうえで設計にあたっていたことが伺えると思う。

【参考】「高等建築学」22(1934、断面図は同書からの引用)、「近代の劇場建築」(1930)ほか。

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2012.02.27

OSN064歌舞伎座

歌舞伎座については以前にも書いたことがあるし、「歌舞伎座百年史」など関係資料も多いのだが、何点か補足しておきたい。

■建築音響について
岡田が設計した歌舞伎座の音響について、改めてまとめておく。取壊し前の歌舞伎座の音響のよさには定評があったが、吉田五十八の改修による部分も大きく、オリジナルの音響がどうだったかというのは、中々難しい問題である。

(1)大学での卒業論文に「建築音響」をテーマに選んだほどで、岡田も音響には深い関心を持っていた。しかし、明治~大正当時の研究レベルは多分に経験的なものに留まっており、岡田の知識もそれを超えるものではなかったであろう。(→歌舞伎座の音響4

(2)日本で本格的な建築音響の研究が始まるのは、W.C.セイビン(ハーバード大学教授)の理論が導入されてからである。早稲田大学の内藤多仲及び黒川兼三郎はアメリカに留学した際、セイビンに会って教えを受けた。岡田も、帰国したばかりの黒川から最新の建築音響理論を聞いていたかもしれない。(→歌舞伎座の音響7

(3)苦心して設計した歌舞伎座の音響効果は、岡田自身満足できるものだった。竣工間近に舞台で発声してみた幹部たち(注)から誉められた岡田は、大喜びで正木校長のもとへ報告に行ったという。(→歌舞伎座の音響3の後半)

探索不足で歌舞伎座の音響に対する当時の論評をまだ見ていない。あればご教示いただきたい。

(注)当時の幹部と言えば、五代歌右衛門(千駄ヶ谷に広大な邸宅があった)、七代中車、十五代羽左衛門、十一代仁左衛門あたり。

■和風意匠について
明治時代に建てられた歌舞伎座は、1921年(大正10年)10月30日の朝に火災が起こり、40分ほどで全焼してしまった。原因は漏電だったようだ。さっそく松竹の大谷竹次郎が中心になって善後策を協議し、11月4日の重役会で次のように決まった。

一、直ちに劇場新築の計画に着手する事。
一、昼夜兼行で工事を急ぎ、一ヶ年で落成を期する事。
一、建築の様式は耐火式とし、而も外観は模範的大劇場として、国粋的美観を表わす事。 (「歌舞伎座百年史」)
「国粋的美観」ということは、歌舞伎の殿堂らしく和風のデザインで、という構想が早くから決まっていたのだろう。ただ、一口に和風と言っても表現の幅は広いはずである。お寺とも城郭ともつかぬ、過剰な和風デザインになったのは何故だろうか。

鉄筋コンクリート造で軒裏の垂木や柱上の組物などを造ってみても、構造的な意味はなく、無駄と言えば無駄である。また、岡田自身の過去の言論とも矛盾するように思われる。日清生命保険会社の設計コンペ(1916年)で審査員を務めた岡田は、和風の屋根をかけた「日本趣味」の設計案が1等当選をしたことに対して、次のように述べていた。

自分は此の審査に関与した結果、将来の国風なるものに対して過去の形骸が多くの価値を持って居ないと言ふ事を一層確信した (「日清生命保険会社建築設計競技に就て」)
こう主張していた岡田が、わずか数年後に歌舞伎座を設計したことは、言行不一致と言われても仕方ないだろうか。

ただ、歌舞伎座の過剰な和風デザインはまったく無駄だった訳ではない。特徴ある外観はいかにも歌舞伎劇場らしいものだし、味気ないビルが並ぶ街中で異彩を放つ建物を見て、多くの人がさすが歌舞伎座だと感じていたのである。

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2012.02.26

OSN063東京府美術館

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今はなき東京府美術館(1926年)は、ギリシャ神殿を思わせる列柱が特徴で、岡田の代表作の一つである。
岡田設計の旧美術館が取り壊されてからおよそ35年。前川國男設計の方の美術館(1975年)も、そろそろ歴史的建造物の仲間入りをしそうな感があるが、岡田ファンとしては旧美術館を忘れる訳にはいかない。

旧美術館については、斉藤泰嘉氏が詳細に調べ、「東京府美術館史の研究」(学位論文)にまとめているので、あまり謎も残っていないようだが、自分なりに何点か述べてみたい。
(建設の経緯については公式サイトの「沿革」にまとまっている)

■タイルの色
外壁はスクラッチタイル仕上げだったはずだが、どんな色だったのか気になる。近くに現存している黒田記念館や東京美術学校陳列館はやはり岡田作品であり、同じような色だろう…と、漠然と考えていたのだが、確証はない。
そもそも旧美術館のカラー写真も余り見かけないようだが、写真では、天候等によって色合いが変わってしまう。
どこかに現物は残っていないものか。

■増築時の図面
旧美術館の開館後、間もなく展示スペースが不足し、増築工事が行われている。
【当初】 地階附2階建、鉄筋コンクリート造タイル張 (延坪数)2,627坪(竣功年月)大正15年3月
【増築】 地階附2階建、鉄筋コンクリート造タイル張 (延坪数) 900坪(竣功年月)昭和4年4月

国会図書館に所蔵されている岡田信一郎の設計図面の中に、当初の図面はあるのだが、増築時の図面は見当たらないようだ。
もしかすると、増築時は東京府の営繕組織(鵜飼長三郎営繕課長)が主導したのかも…などと推測しているが、どうなのだろうか。

■岡田の初期構想
岡田が美術館の建設計画に関わるようになったのは、岡田が本格的に事務所を構える前の1919年のことである。
国立(帝国)美術館建設の機運が高まりつつあり、美術家らによる「美術館建設期成同盟会」の中で、岡田が作成した設計図が検討された。同盟会の中には建築家の塚本靖、中條精一郎もいたが、岡田が担当になったのは、おそらく東京美術学校の正木校長から、依頼されたからだろう。
計画案の内容について、詳細のところはよくわからないが、「美術之日本」に紹介記事があった。

建物を東面長方形とし(長さ約六十間東西幅約三十間)坪数約千二百坪、陳列室の外に地下室並に二階を設け階上は会議室其他とし文展に於ける陛下行幸等の場合には便殿に当て地下室は専ら事務室に当てる、長方形の陳列場の周囲は洋画及び日本画を陳列し中庭を彫刻室とする厭味の無い瀟洒たる希臘風のクラシック式建築とすると言ふのである。
ここで興味深いのは、初めから岡田が「ギリシャ風」を構想していたらしい点である。規模や配置は異なるが、中央部分を彫刻室とする点も初めからの構想ということになる。

文部省では(おそらく岡田の設計案をもとに)、美術館の経費総額を350万円ほどと見込み、8年継続事業として、予算要求をしたのだが、11月の閣議で「不急の施設」という理由で削除されてしまった。

国立美術館計画は進まず、結局佐藤慶太郎の寄付を受けて、東京府が建設を行うことになった。

(画像は建築雑誌482号より)

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2012.02.16

ONS062高島屋と岡田

大阪店の仕事のほか、岡田と高島屋の間には様々な関わりがあった。

■川勝堅一との縁
1917年、高島屋の川勝堅一が、岡田信一郎から紹介状を書いてもらった話が「日本橋の奇跡」に書いてある(以前の項でも引用)。
紹介状は与謝野寛・晶子夫妻にあてたもので、以来高島屋「百選会」など文化事業面で、与謝野夫妻には大変世話になったという。
(岡田の交友の広さもうかがえるエピソードである。ただ、1917年というのは少々あやしいようでもっと後の時期かもしれない。1921年(大正10年)に、与謝野晶子が高島屋「百選会」のために歌を作っており、それより前のはずである。)

川勝は1892年(明治25年)生まれで京都出身。1908年(明治41年)に京都たかしまや飯田呉服店に入店。1916年に京橋南伝馬町の東京店へ移り、ショーウインドーから店内のディスプレイ、広告まで何でも一人でこなし、やがて広告部長(宣伝部長)となった。その後大阪店支配人、東京・大阪・京都三支店の総支配人、と昇進し、戦後は常務取締役(代表取締役)まで務めた人物である。
川勝は建築にも関心が深く、岡田を師と仰ぎ、様々なことを学んだという。

■平和記念東京博覧会
1922年(大正11年)3月~7月に上野で開催された展覧会である(平和とは第一次世界大戦の終結を指す)。
近代建築史上は、分離派建築会員の設計したパビリオンや、「文化村」のモデル住宅で知られている博覧会だが、岡田ファンとしては、高島屋の展示を忘れる訳にはいかない。
大阪高島屋の建設中の仕事であり、岡田にしてみればちょっとした余技のようなものだろうが。

染織別館内に三越、白木屋、松屋、松坂屋などと並んで高島屋が出展したのは「文化の幸」と題する社交ダンス人形である。展示を担当した川勝堅一によると、「この陳列ケースは建築家岡田信一郎先生によるフランス・ピンク色ルネサンス様式、施工は竹中工務店。ケースの中の広さは約三間半四方、ピアノに寄れる若い令夫人の外、大人ダンス一組、男性は折柄オールバック・女性は耳かくし時代で、小山内薫氏の似顔でオールバックにし、(…)婦人は高島屋の得意先、岡崎慶次郎氏夫人の耳かくし美人(…)」といったものであった。
(川勝は小山内とも親しくしていた)

これが当時は中々好評だったようで、当時の朝日新聞では次のように紹介された。

華麗衆目を驚かすに足る全会場中第一の美観は染織別館である 本館は東京市中著名の呉服店が共同特設したもので(…)中にも構想、調和共に無難で衆目を娯ましめるのは「文化の幸」と題する高島屋の出品だらう
(「平和記念東京博覧会事務報告」に写真が掲載されている)

■歌舞伎座の緞帳
伊東胡蝶園が歌舞伎座(岡田の代表作)の緞帳図案を公募した際に、高島屋図案部が総力を挙げて取り組み、一等当選はじめ多くの入選を獲得し、製作を受注した。

■飯田藤二郎邸
1925年、駿河台四丁目に建てられた飯田藤二郎の邸宅は、岡田が設計した。
藤二郎は1869年(明治2年)生まれで、四代目新七の弟である。欧米諸国を視察し、高島屋飯田(高島屋の貿易部門が独立)の東京支店長、後に社長を務めた。
住宅のスタイルは、2階建のハーフチンバー風洋館と、平屋建の和館を並置したものであった。

■高島屋東京店の復興
京橋南伝馬町の東京店は関東大震災で罹災し、一時、千代田館を借りるなどで営業していた。
元の店舗の位置に木造2階建の店舗を再建することになり、岡田が設計を担当した。1927年(昭和2年)竣工。

なお、本格的な百貨店建築については、その後の課題となっていたが、これは高島屋単独の事業ではなく、日本生命と組んで建設することになった。
(項を改める)

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2012.02.14

ONS061大阪高島屋(続)

1924年に妻や弟と大阪へ立ち寄った岡田が、高島屋を訪れて感慨にふけった話は、「関西への旅」の項で引用した。岡田の率直な心情が表れた文章である。

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ところで、南海ビル(南海店)の方が1930年に第1期竣工、1932年に全館竣工し、岡田設計のビルは「長堀店」となった。しばらくは南海店・長堀店の両方が百貨店に使用され、それぞれに特徴を持たせて営業していたという。大きな催しは長堀店で行われ、四天王寺展などの会場にもなっている。

しかし統制経済の影響もあって統合されることになり、1939年(昭和14年)1月、長堀店は閉店となった。(従って高島屋として使われたのは実質16年ほどの間である)

閉店とともに長堀店の土地建物は日立製作所に譲渡された。
その後、大阪空襲(1945年)による被害を受けたということであるが、どの程度の被害だったのだろうか。

1954年(昭和29年)、丸善石油が本社ビルとして取得したが、当時はまだ外観に百貨店当時の面影を残していたようである。(「目で見る大阪市の100年」に不鮮明ながら写真あり)
しかし、その後の改修工事により、外観はルーバーで覆われ、かつての面影は全く無くなった。

※取壊しの際のことは、以前の記事にも少々書きましたが、TAKATAKATAKAさんのブログに「長堀高島屋解体記録」があり、詳細に記録されています。

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2012.02.13

ONS060大阪高島屋

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大阪の高島屋と言えば、南海電鉄なんば駅(南海ビル)の店舗が思い浮ぶ。1932年に竣工したクラシックなビル(設計久野節)で都市建築の佳品と言えるが、ここで述べるのは、1922年(大正11年)に建てられ、昭和10年代まで使われた岡田信一郎設計によるゴシック様式のビルの方である。
(竣工時は「高島屋呉服店大阪支店」が正式名か)

高島屋呉服店は、1919年(大正8年)8月に株式会社化したのを機に、大阪店を高層ビル化し、本格的な百貨店とすることを企てた。当時の大阪店(心斎橋)は敷地が狭かったため、入札に出ていた長堀橋南詰の旧南区役所跡地を手に入れた(同年11月)。
また、飯田新三郎・細原和一の2名が翌年4月から11月にかけて欧米の百貨店事情の視察に出ている。

岡田が設計を依頼された経緯ははっきりしない。当時の岡田は大阪市公会堂のコンペに当選したことなどで、大阪でも名を知られていたかもしれないが、百貨店のような大規模な作品はまだ手掛けていない時期である。
1919年に心斎橋の大阪店が火災にあったときには、住友の技師、小川安一郎が再建工事を担当しているし、関西建築界で建築家を探すとなれば、岡田には頼まないであろう。

岡田と高島屋の接点を考えてみたのだが…。
創業家、飯田家の中で、岡田と同年代の人物と何かしら接点があったのかもしれない(想像)。
・飯田新太郎…1884年(明治17年)生まれで岡田の1年下。1910年に早稲田商科を卒業。当主・四代新七の子で、建設当時は高島屋の常務取締役。
・飯田直次郎…従来からの呉服店から近代的な百貨店への転換を推進した中心人物。同じく1884年生まれ、1912年に東京帝国大学経済学部を卒業した。前当主・三代新七の子で、当時は高島屋の取締役。1942年に三代目社長に就任した。
川勝堅一という人(後の項で出てくる、後に高島屋の重役になる)の記憶によれば、1917年に岡田に紹介状を書いてもらった時、「私の友人、飯田新太郎君の店の宣伝部で働いておる川勝という人…」という文言があったとのことだ(「日本橋の奇跡」)。ひとまず、飯田新太郎の紹介の可能性あり、ということにしておきたい。

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大阪高島屋は、「地階附7階建、鉄筋コンクリート造タイル張 (延坪数)3,120坪」で、構造設計を内藤多仲が担当した。
起工は1921年5月で、竹中工務店の施工により、1922年(大正11年)9月に竣工し、10月に開店した。

岡田の設計図面では屋上に塔が見えるが、実際には塔は造られなかった。それにしてもなぜゴシック様式を採用したのだろうか。
当時の写真を見ると、まだ昔ながらの町屋風の建物が並ぶ中に、7階建てのビルがひときわ大きくそびえており、さぞ人目をひいたことと思われる。
ちなみに大正期の大阪は、三越が1917年(第1期)・1920年(第2期)、白木屋が1921年、大丸が1922年(第1期)・1925年(第2期)と、次々に高層ビル化していた時期にあたる。
このうち現存するのは大丸(心斎橋筋側の部分)のみである。(御堂筋に面したゴシック様式風の部分は1933年竣工)

「高島屋150年史」によると売場構成は次のとおり。

屋上 演芸場・遊戯場
7階 日用品・大食堂
6階 催し場・文具・雑貨・美術品
5階 洋服・家具服飾品
4階 雑貨・貴金属・装身具
3階 高級呉服
2階 実用呉服
1階 雑貨・化粧品
地階 食料品

現在のデパートとそれほど変わらないようであるが、大きく違うのは下足の扱いである。
「店内は上敷がしきつめてあってお客様は下足を預け 備えつけの赤鼻緒草履をはいて上り 靴の人にはカバーを着せた」(「高島屋135年史」)。長堀店で下足を廃止するのは昭和2年(1927年)3月という。
また、当時の平面図を見ると、1階に広い「御買上品御渡し所」があるので、会計はまとめて1階で行っていたようである。

面白いのは地下食料品売場で、毎朝7時から11時まで新鮮な野菜や魚、肉、乾物などを廉売し、「下駄履きのまゝお出入自由」だったらしい(以前の記事でも紹介)。
だが、平面図を眺めてみても、地下に行く客と、それ以外の客をどうさばいていたのか、今一つよくわからない。詳しい方のご教示をお願いしたい。
(立面図は「図面でみる都市建築の大正」より引用、写真は当時の絵はがき)

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2012.02.05

ONS059大阪市公会堂(続)

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■岡田の抗議?
実施設計は、大阪の辰野片岡事務所(実質的には片岡安)が行ったが、考えてみるとコンペで落選したはずの片岡が、岡田の当選案に変更を加えているのだから、妙な話である。
(辰野金吾にしてみれば、元々自分が設計するのが当然という意識なのだろう)

さすがに、岡田の当選案がいつの間にか(?)設計変更されていたことを問題視する意見があった。

○伝聞するところに拠れば、先頃大阪市公会堂事務所が、懸賞競技を以て募集したる建築図案は、其後当選者に対して協議を経ず、縦に大に改刪せられたりと。果して事実ならば、容易ならざる出来事なり。(美術週報)

○作品が他人の手で改悪せらるゝとは、痛ましいと云はうか嘆かはしいと云はうか初めの作家設計者に対しては誠に気の毒の次第で、先の名誉、今は却つて恥となる始末である。(…)斯の如きは折角芽ざして来た懸賞設計といふ事に取つて大なる厄であるのみならず、今後は応募する人もなくなり、建築界の由々しき大事であると思ふ。(建築画報)

○曾て大阪公会堂の建築施工に関し、某工学士は憤然抗議を申込みたることありと聞けり、施工者が設計者の技能を尊重せず、任意に設計図案を破壊し去るの妄挙に出でしが故と。(建築画報)

最後の引用文にあるように、岡田は実際に公会堂事務所(または辰野や片岡)への抗議に及んだのだろうか?

■松本与作の証言
当時、辰野葛西事務所(東京)にいた松本與作の聞き書きをもとにした「谷間の花が見えなかった時」に次のようにある。

ある日この岡田信一郎が辰野金吾の事務所へ、大阪中央公会堂の設計図案を携えてやってきた。(…)辰野はこの図案をみると直した方がよいと言い、二階の設計室で松本與作に修正を指示した。そして実際に完成したのはこの修正案の方である。このとき岡田信一郎は松本與作にこう話していたという。「先生が直された方が、やっぱりいいようだね」と。
はるか後年の回想であり、史料批判の問題はあるが、これが事実とすれば、岡田の目の前で当選案に修正が加えられたことになる。
だが、それ以上に実施設計や監理の段階でまったく関与できなかったことが残念だったに違いない。さすがの岡田も辰野金吾には逆らえず、諦めたのだろうか。論文「新日本の建築」で暗に辰野金吾を批判したのは岡田なりの抵抗だったのかもしれない。

松本は1890年(明治23年)9月生まれで岡田の7歳下である。1907年7月、18歳で夜学の工手学校を卒業したが、岡田は同年2月から同校の講師をしていたから、松本も知っていた可能性がある。
(写真は2008年9月撮影)

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2012.02.04

ONS058大阪市公会堂

大阪市中央公会堂の話題は既に議院建築コンペとの関連で出ているが、書き残した点を補足しておきたい。
(大阪市公会堂のコンペについては、以前、月刊岡田信一郎の第4号第15号にも書いた)

■公会堂が縮んだ…
岡田の当選案に対して、辰野金吾はいくつか注文を出した。例えば、岡田案では正面大アーチの左右に時計が付いていたのを、「停車場風」でよくない、などといった具合である。これらの点は、実施設計段階で変更された。

岡田案と実施設計の比較については、山形正昭氏論文「大阪市中央公会堂の建築」(芸術22号)に詳しいが、特に規模が縮小してしまった点は不思議な感じがする。(経費削減などのためだろうが…)
岡田案では、例えば正面の間口が60尺だったのが、実施設計では54尺と約1.8m縮んでしまったのである。

■公会堂のデザインソースは?
公会堂の様式は「ネオ・ルネサンス」とされることが多い(公式サイトにもそう書いてある)。
岡田自身は「様式は仏蘭西復興式を主とし、之に他の様式を加味しました」(建築ト装飾)、つまりフランス式のルネサンスと述べているが、ルネサンス様式の平明な表現というよりは、バロック様式のオペラ座のようにコテコテで、にぎやかな部分が目に付くと思う。

建築界の長老格、曽禰達蔵は、公会堂正面の大きなアーチが、岡田が設計に関与した警視庁のアーチに似ていると述べた。(建築雑誌557号)

建築史家も諸説を唱えている。
「図面で見る都市建築の明治」の解説文(鈴木博之氏)は、「もっともヴィクトリア朝的な建物のひとつ」であり(=ヴィクトリアン・ゴシック)、ロンドンにあるパレスシアター(1890年)やウエストミンスター大聖堂(1903年)がデザイン源のひとつではないか、としている。
Sakai
川道麟太郎氏(技苑97号)は堺市公会堂(1912年竣工、辰野片岡事務所設計)や、フランクフルト・アム・マイン駅(中央駅、1883年、Hottenrot & Eggert設計)を挙げている。
山形正昭氏(前掲論文)も同じく堺市公会堂、また、西澤泰彦氏は満州の撫順公会堂(1910年竣工、満鉄建築課設計)とのデザインの類似性を指摘している。
大阪市中央公会堂の大アーチは、そのままヴォールト屋根につながっており、その点ではフランクフルト中央駅に近いと思う。
いずれにしても、辰野金吾好みのデザインであったのだろう。
(画像は堺市公会堂、山形論文より引用)

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2012.02.01

ONS057岡田と議院建築

さて、議院建築をめぐってずいぶん寄り道をしたが、肝心の岡田信一郎との関わりを補足したい。

(1)「議院建築問題」をめぐる岡田自身の言動
明治の終わり頃には、議院建築問題がだいぶやかましくなっていた。岡田なども周りの若手建築家たちと気炎を上げていたことだろうが、岡田が議院建築に直接ふれた文章は意外に少なく、「音響問題より見たる議院建築」(1911年)ぐらいしかないようだ(以前の記事で引用したことあり)。
1910年におこわなれた討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」は、議院建築問題から派生して行われたもので、岡田も参加したが、ここでも議院建築のことを直接論じてはいない。
(岡田は「和洋を問はず国民の思潮を基礎とし、(…)自分の思ふ所を直截明快に現はして差支ない、さうすれば将来の様式に近づくことが出来ると思ふのであります」などと述べた)

(2)議院建築コンペへの関わり
本来なら岡田が、大阪市公会堂の設計コンペに1等当選した勢いで議院建築のコンペにも挑み、1等を勝ち取ればよかったと思うのだが、どうも応募はしなかったようだ(?)。
当時のコンペの運営状況から、当選してもそのまま採用される訳ではなく、勝手にデザインを変更されたり不本意な扱いを受けかねないと思ったからだろうか。
このあたりが謎である。

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