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2012.01.26

OSN053妻木・辰野と大阪市公会堂 (続)

大阪市公会堂のコンペは、指名を受けた建築家が提出した案を参加者の「互選」によって選ぶという、珍しい方式で行われた(ひょっとして、先に述べた妻木のコンペ批判<一流建築家が審査員になれば応募するのは二流ばかり>をかわすためなのか?)。

指名されたのは伊東忠太、中條精一郎ら17名の建築家で、このうち13名が設計案を提出し、理事長、建築顧問(辰野金吾)および応募者全員が審査に当たった。その結果、最年少の岡田信一郎が1等となり、2等が長野宇平治(元日本銀行技師)、3等が矢橋賢吉(大蔵省臨時建築部)であった。

岡田の計画案は後に「美術新報」誌の「賞美章」を受賞したほどで、美術界からの評判もよく、優れた作品が選ばれたことでコンペ方式の利点を世間にアピールすることができたと言える。ついでに、議院建築を進めていた大蔵省技師の矢橋が3等(兼任技師の武田五一は選外)に留まったことで、辰野の溜飲も下がったことだろう。

読売新聞記者で、かねてよりコンペ開催の論陣を張っていた黒田鵬心は、1911~12年にかけて三菱本社、大阪市役所、大阪市公会堂などの懸賞設計が続いたことによって「空論の如くに見られた懸賞設計説は今や事実を以つて証明する時期に際会したのである」と述べた後、次のように続けた。

痛快なのは、当時議院建築の設計に任じ、非懸賞設計であつた二技師 [矢橋・武田のこと] が、大阪市公会堂の指名競技に於いて快く承諾し応募した事である。しかも一層痛快なのは、其の審査の結果、一等二等は彼の二技師以外の建築家に占められた事である。(「美術新報」)

これより先、1910年(明治43年)までには大蔵省側は議院建築の計画案をまとめていた。当時の図面は関東大震災の際に焼失しており(議院建築準備委員会に示した平面図などが残るのみ)、詳細は不明であるが、妻木頼黄の監督のもと矢橋や武田が設計に当たったものである。
足立裕司氏論文参照)
この頃が妻木の勢力の絶頂期であり、桂太郎首相(大蔵大臣兼務、第二次桂内閣)と直談判しては、議事堂の建設に向けた準備を着々と進めていたという。(「妻木頼黄と臨時建築局」)

しかし、日露戦争後の財政難という状況下で、政権交代もあって議院建築の着工には至らず、結局妻木がまとめた計画案が日の目を見ることはなかった。
妻木は病気がちとなり、大正政変により第三次桂内閣が倒れた後、1913年に官職を辞任。1916年に死去した。

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