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2012年1月の11件の記事

2012.01.31

ゴヤ展

Goyap1110121
最終日にやっと見てきました(..)
宮廷画家にしては悲惨な戦争画を描いたり、中々複雑な人物だったようです。
職場に「裸のマハと着衣のマハが両方(日本で)展示されているのを見た」という人がいて、1971年のことだと知って驚きました。

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2012.01.29

ONS056前田健二郎(おまけ)

「前田建築事務所のあゆみ」からもう少しエピソードを拾ってみたい。

○築地本願寺(1934年竣工)
はじめ前田に設計依頼が来ていた。そのデザインは「思いきって新しいもの」だったが、設計が出来上がった頃、間接的に伊東忠太に設計を譲ってほしいという話があり、設計者が変更になった。
現在見るように伊東によるインド式のデザインとなったが、前田にも設計料6,000円が支払われた。
(前田案がどのようなものだったか不明だが、モダンデザインが不評だったことが大きかったのではないだろうか)

○1937年パリ万国博・日本館
これも前田が設計したもの。病気中だったのでパリに行くのを断り、当時ル・コルビュジエのアトリエにいた坂倉準三が実施設計をした。
「坂倉さんは私の基本設計にかなり忠実に実施設計をしてくれた」

○日本生命本社(大阪、1938年竣工)
これも前田に設計依頼があったもの。東京の日本生命館(後記)の縁であろう。
ところが設計がもうすぐ完了というところで、長谷部竹腰事務所から弘世(助太郎)社長のもとに「大阪に建築家なきが如き振舞いをされては困る」と横やりが入ったという。
板挟みになった弘世社長から、設計料は規定通り支払う、支店の設計を任せる、と言われ、これも設計を譲ることにした。喜んだ竹腰健造が前田のところへお礼を言いに来たという。
「日本生命本社の建物は目地の切り方まで私の設計そのままで工事が進められ、私は相談相手のような形で参加させて貰いました。その厚い処遇には感謝しましたが、途中であれこれ考えて辞退してしまいました。」

○東武鉄道会社浅草停車場(東武浅草駅・松屋浅草、1931年竣工)
スカイツリーの開業に合わせて、現在、当初のデザインに復元する工事が行われている(PDF)。
一般には「久野節設計」とされていたと思うが、実際には前田の設計だという。
「元鉄道省建築課長の久野節氏から設計一切を託され、山田健治(前田設計事務所主任)を主体とし、設計係を組織して、前田が指導し設計した。構造設計は久野氏の弟が担当した。」

○日本生命館(高島屋東京店、1933年竣工、重要文化財)
設計者が片岡安、高橋貞太郎、前田の連名になっているのが以前から気になっていたが、本書に「昭和3年 日本橋高島屋(日本生命館)建築設計競技(共同設計)  一等受賞」とあった。
このコンペでは「一、二等の等級なく、入選者十名に一千円宛を与へ、更にその中の優等三人になほ一千円宛合計二千円を与へる」ということで、「特選」は高橋、出張龍三、下山猛の3名だが、その中でも、高橋案が筆頭に置かれており、実質的な最優秀作だった(建築雑誌1930年3月、6月、7月)。この案が高橋と前田の共同設計だったのだろう。

日本生命館コンペは、「建築意匠のヒントを懸賞で募集」と言われた妙なものだったが、岡田信一郎との因縁もあり、後でまたふれたい。

※前田健二郎の数々のコンペ受賞歴を見ていると、当時のコンペがいかに設計者を尊重していなかったかが窺われるのだが、これも後でふれる機会があると思う。

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2012.01.28

OSN055議院建築コンペ(続)

前田健二郎が続いて挑んだのが1919年の議院建築コンペである。その際のエピソード。

確か議院建築懸賞の第二項[第2次?]応募締切の前日でありました。数日前から不眠不休努力の最中風雨強く往来の行き来も殆んど絶えた夜遅く、先生は一人外套も着られず半身雨に濡れ乍ら尋ねられて私の出来栄えを心配され、何かと入念な心遣ひをして下された (「建築雑誌」557号)

岡田の弟子思いな面が伺われるエピソードである。当時の新聞記事で天候を調べると、第二次審査の締切(1919年9月15日)前に、9月13日まで雨が続いており、岡田が来たというのはこのときであろう。

前田は後年、(学生時代に)美術学校の後輩、矢部金太郎(1918年卒)や岡田捷五郎(1920年卒)、吉田五十八(1923年卒)らとよく遊び、またコンペに応募した思い出を語っている(「新建築」吉田五十八追悼記事)。
おそらく議院建築コンペでもこれらのメンバーが手伝ったのであろう。
実弟の捷五郎が手伝っていたとすれば、風雨の中、わざわざ前田のもとを訪れたというのも、納得できるが…。

「前田建築事務所の歩み」にはさらに次の記述がある。

私は幸いに一次をパスし、二次で四等 [?] に入りました。その図面を岡田信一郎先生が熱心に説いて下さって、美術学校が教材として200円で買い上げてくれました。

ここでようやく芸大美術館所蔵の図面の話に戻る。(議院建築の項)
制作者名の記載のない「議院建築設計図案」(1920年5月8日買入)は、前田健二郎の設計案ではないかと思うがどうだろうか。
「帝国議会議事堂建築報告書」に掲載されている一次審査通過作品の中に前田案が含まれているはずであるが、一次・二次でデザインを変えており、どれが前田のものか、よくわからない。
(ちなみに、コンペ主催者から一次審査通過者に対して、応募作品に議院建築として品位に欠く外観のものが多かった、一次で提出した設計案にこだわらず優秀な作品を完成させよ、という趣旨の注意が与えられていた)

ただ、前田が二次で四等入選と言っているのは勘違いであろう。募集規程によれば、一等~三等が当選で、四等というのはない(三等は2名枠だが、前田は入選していない)。前田は一次審査当選、二次審査落選ということになる。
募集規程には当選設計の図書及び意匠は臨時議院建築局の所有とし、当選しなかった設計図書は還付する旨が記されているので、一次の応募作は返却されず、二次の分が返却されたはずである。

さて、帝国議事堂関係の図面類は関東大震災の際に焼失してしまったという。
コンペ関係資料も失われてしまったとすると、芸大美術館所蔵資料は、当時の貴重な資料ということになるのでは…(詳しい方のご教示をお願いしたい)

なお、議院コンペと同年の1919年、前田は逓信省から第一銀行建築掛に転じた。理由など詳細は不明だが、コンペとの関連があるのだろうか?
第一銀行には、岡田の後輩、西村好時がいたので、岡田が就職先を紹介した可能性もありそうである。

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2012.01.27

OSN054議院建築コンペ

議院建築の設計コンペが実際に行われたのは公会堂コンペの7年後である。この頃までには大規模な建築に際してはコンペを開催することも広く見られるようになってきた。

ただし、(昭和初期に至るまでほとんどの)設計コンペは優秀な建築家を選定するものではなかった。むしろ、(多くの場合)主催者側が平面図を用意しておき、新人が腕試し(あるいは賞金稼ぎ)でデザインを応募し、主催者側はその中からよさそうな案を選び、適宜修正して用いる(まったく違うデザインで完成した事例も数多い)、といったものになってしまっていた。つまり多くのコンペはファサードデザインコンテストにすぎず、当選者も実施設計には関与できず、設計者の著作権に対する配慮も欠けたものであった。(近江栄「建築設計競技」参照)

これは大阪市公会堂コンペにも見られた弊風であった。
本来はコンペを勝ち抜いた実力ある建築家が設計を任され、その腕を振るうというのが望ましい姿なのだろうが…。

さて、議院建築(1919年)コンペには、岡田信一郎自身は関与していない(はずだ)が、美術学校での教え子、前田健二郎(1916年卒、当時逓信省)がコンペの一次審査を通過し、二次審査に進んだ。

ここでまた寄り道になるが、前田健二郎(1892~1975)の回想と作品を収めた「前田建築事務所の歩み」(1973年?)という本に色々と面白い事が書いてあるので、紹介してみたい。

前田は明治の終わる年、1912年に東京美術学校図案科に入学した。2年生のときに農商務省の工芸図案展覧会(?)で二等入選したというから、早くからデザインに巧みだったことがうかがえる。
この腕を生かして建築パース図(透視図、背景図)のアルバイトをこなし、特に岡田信一郎の推薦が多かったという。小遣いには恵まれており、同じ下宿の東大生や美術学校の仲間と吉原で遊ぶこともあった。

1916年(大正5年)に美術学校を卒業し、逓信省に入ったが、当時はまだ「美術学校でも建築を教えているのか」と不思議がられ、同僚に「僕たちと同じような図面を引くじゃあないか」などと言われて悔しい思いをした。
(1912年、前田と入れ替わりに美術学校を卒業した和田順顕にも同じような話がある)
「いまに見ろ」ということで、よけいコンペに精を出すようになったという。

はじめに応募した聖徳記念絵画館の設計コンペ(1918年実施)は落選だった。ちょうどこの年に東大を卒業し、逓信省に入ってきた岩元禄と意気投合し、議論ばかりしていたため、という。

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2012.01.26

OSN053妻木・辰野と大阪市公会堂 (続)

大阪市公会堂のコンペは、指名を受けた建築家が提出した案を参加者の「互選」によって選ぶという、珍しい方式で行われた(ひょっとして、先に述べた妻木のコンペ批判<一流建築家が審査員になれば応募するのは二流ばかり>をかわすためなのか?)。

指名されたのは伊東忠太、中條精一郎ら17名の建築家で、このうち13名が設計案を提出し、理事長、建築顧問(辰野金吾)および応募者全員が審査に当たった。その結果、最年少の岡田信一郎が1等となり、2等が長野宇平治(元日本銀行技師)、3等が矢橋賢吉(大蔵省臨時建築部)であった。

岡田の計画案は後に「美術新報」誌の「賞美章」を受賞したほどで、美術界からの評判もよく、優れた作品が選ばれたことでコンペ方式の利点を世間にアピールすることができたと言える。ついでに、議院建築を進めていた大蔵省技師の矢橋が3等(兼任技師の武田五一は選外)に留まったことで、辰野の溜飲も下がったことだろう。

読売新聞記者で、かねてよりコンペ開催の論陣を張っていた黒田鵬心は、1911~12年にかけて三菱本社、大阪市役所、大阪市公会堂などの懸賞設計が続いたことによって「空論の如くに見られた懸賞設計説は今や事実を以つて証明する時期に際会したのである」と述べた後、次のように続けた。

痛快なのは、当時議院建築の設計に任じ、非懸賞設計であつた二技師 [矢橋・武田のこと] が、大阪市公会堂の指名競技に於いて快く承諾し応募した事である。しかも一層痛快なのは、其の審査の結果、一等二等は彼の二技師以外の建築家に占められた事である。(「美術新報」)

これより先、1910年(明治43年)までには大蔵省側は議院建築の計画案をまとめていた。当時の図面は関東大震災の際に焼失しており(議院建築準備委員会に示した平面図などが残るのみ)、詳細は不明であるが、妻木頼黄の監督のもと矢橋や武田が設計に当たったものである。
足立裕司氏論文参照)
この頃が妻木の勢力の絶頂期であり、桂太郎首相(大蔵大臣兼務、第二次桂内閣)と直談判しては、議事堂の建設に向けた準備を着々と進めていたという。(「妻木頼黄と臨時建築局」)

しかし、日露戦争後の財政難という状況下で、政権交代もあって議院建築の着工には至らず、結局妻木がまとめた計画案が日の目を見ることはなかった。
妻木は病気がちとなり、大正政変により第三次桂内閣が倒れた後、1913年に官職を辞任。1916年に死去した。

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2012.01.25

OSN052妻木・辰野と大阪市公会堂

岡田信一郎の出世作といえば大阪市中央公会堂の設計コンペに当選した計画案であるが、このコンペは議院建築の建設計画と関わりがある。
以前に「月刊岡田信一郎」(第3号第4号)に書いたのだが、岡田が大学を卒業したのは1906年で、日露戦争が終わった翌年である。戦争に勝った勢いか、この頃から議事堂を本建築で建設しようという機運が高まってきた。第1回の帝国議会が開かれたのは1890年11月だが、十数年以上経っても、議事堂は木造の仮建築のままだったのである。
(Wikipediaで官庁集中計画とか、国会議事堂のあたりを参照)

ここで官庁主導で議事堂の設計を進めようとする大蔵省臨時建設部の妻木頼黄と、設計コンペの実施を要求する建築学会の辰野金吾の対立が起こった。
妻木は、コンペの実施には時間も費用もかかるし、そもそも、一流の建築家が審査員になるのだから応募するのは二流の人物ばかりになるではないか、と言ってコンペ実施に反対した。一方、辰野の方は、コンペの正当性を主張するが、あわよくば自らが議事堂を設計することを念願としていた。
(このあたりは、きちんと書かないといけないが、今はごくおおざっぱな説明に留めておく)

建築史上はルネサンス期のフィレンツェ大聖堂、フランスのネオバロック様式のオペラ座、イギリスのゴシックリバイバルの国会議事堂などのコンペが有名である。時代を代表する建造物を築くにあたっては、コンペを開催するのが理想的なのだろう(?)。
だが、当時の日本ではまだコンペが定着しておらず、わずかな先例しかなかった(実施が増えてくるのは明治40年代以降である)。
コンペ推進論者側にとっては、まずコンペ開催の実績を積み、コンペを通して優秀な作品を選ぶことができることをアピールする必要があったはず。
辰野は大阪市公会堂の建築顧問に就いており、コンペ開催には辰野の意向が大きく働いただろうと想像される。

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2012.01.20

OSN051議院建築

久々の「岡田信一郎の謎」シリーズ。
タイトルの議院建築とは国会議事堂(帝国議会議事堂)のことです。

東京芸術大学美術館には「議院建築」の図面が次の2種類収蔵されている。
(1)「議院建築図案」9枚…山田猷の卒業制作、1919年(大正8年)制作、1919年3月28日買入
(2)「議院建築設計図案」10枚…制作者名の記載なし、1919年制作、1920年5月8日買入
データベースで検索。

近代建築史を通読した人なら、1919年と聞いて議院建築の設計コンペを思い出すかもしれない。タイミングから見て、この2図面は設計コンペに関係があるのではないか?

設計コンペ(当時の言い方では、議院建築意匠設計懸賞募集)は、1918年9月16日の官報に公告が出され、締切日(第一次)は1919年2月15日。118通の応募があり、一次審査の当選20作の発表は3月24日であった。(ちなみに議院建築のコンペ開催に執念を燃やした辰野金吾は審査員であったが、発表直後の3月25日に死去した)

(1)の設計者、山田猷(1892~1984年)は東京美術学校の図案科第二部出身で岡田信一郎(当時は講師)の教え子の一人。1919年3月に卒業した。
美術学校が図面を買い入れたのは3月28日だが、卒業制作は2月までには完成していたことだろう。2通りの図面を作り、一方をコンペ用、もう一方を学校用、とすることも日程的には十分可能である。

こうした事例が他にあるのかどうか知らないが、同じデザインで二か所に提出するというのは、さすがに具合が悪いと思う。(コンペの審査員には美術学校の正木校長も加わっており、不公平だと批判を受けかねない)
そもそも設計コンペには応募しなかったかもしれないし、デザインを変えてA案・B案と二通り作ったかもしれないが、そのあたりは何ともわからない。
山田の卒業設計は残念ながら先のデータベースでは見られないが、「東京芸術大学芸術資料館蔵品目録 図案・デザイン 建築」(1991年)に小さな図版が掲載されている。

第一次審査の当選20作の図版は「帝国議会議事堂建築報告書」(1938年)に掲載されているが、いずれも本名は記されておらず(公平を期するため、暗号で応募するようになっていた)、誰が一次審査を通過したのか、誰がどの案を制作したのかはわからない。

なお、山田猷(山田猷人)は卒業後、曽禰中條事務所に在籍していた。
橋本正明氏のサイト、木人子室に「山田猷は東京美校のデザインを出たが、当時 [昭和14年] は国鉄の仙台勤務、休日毎にこけしの産地巡りをしていた。」という記述を見つけた。「東京こけし会」というグループに入っていたそうだ。

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2012.01.10

日本のヌード

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これも会期が終わりそうですが、竹橋の国立近代美術館で「ぬぐ絵画―日本のヌード 1880-1945」を見てきました。(1月15日まで、公式サイト

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黒田清輝が日本に芸術作品としての裸体画を根付かせようと苦闘したかと思えば、萬鉄五郎が裸体画を破壊してしまい(ゴッホ風~ピカソ風?)、その後に安井曽太郎・梅原龍三郎が裸体画を復興(セザンヌ風?)、こんな流れかな。

黒田が日本人にありえない理想的な裸体を描いたこと、萬鉄五郎の画は中心にヘソを置いていること、なども興味深かったです。

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2012.01.09

メタボリズム展

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そろそろ会期が終わりそうなので、あわてて森美術館の「メタボリズムと未来都市展」に行ってきました(1月15日まで、公式サイト)。
すっかり過去の建築思想かと思っていたので、会場が混んでいるのが意外でした!

展示は丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」、広島ピースセンターが前史になっていて、東京計画1960から大阪万博…、と半分は丹下健三展のような感じ。大東亜建設記念営造計画にふれるのに、ル・コルビュジェの輝く都市やユニテ・ダビタシオンにふれないのは何で?

模型やCG、映像資料をたくさん使ってます。国立競技場の建設記録とか、川添登氏のインタビュー(1960年の世界デザイン会議の裏話)などは貴重な資料ですね。
レゴのような建築群がモコモコ増殖していくさまは、やはり気持ち悪い…。

菊竹さん自邸(スカイハウス)も模型+竣工当時の映像で興味深かったです。できれば、その後どのようになったのかも見たかったですが。

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会場外に展示してあった中銀カプセルタワーのユニット。

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2012.01.06

お別れ弁天湯

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012010690110358.html
都内最古級の建物 「弁天湯」閉店 震災が打撃

大正時代創業の銭湯「弁天湯」(東京都荒川区南千住)・・・
8日、お別れイベントが行われる。

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2012.01.04

謹賀新年2012

Kokyop1100931
正月は今年も皇居の一般参賀へ。

Meiseip1100951
明治生命館地下のオイスターバーは開いてましたが入らず。三菱一号館の歴史資料室(都市文化の成立と帝国劇場展、1月13日まで、無料)が開いていたので拝見。

Tokyoekip1100968
復元される東京駅がだいぶ姿を現していました。

Tohakup1100969
最後は東京国立博物館へ回りました。

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