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2011.12.18

OSN047薬王寺町の頃

岡田は1912年(大正元年)11月に牛込区の東五軒町から薬王寺町14に引っ越し、1920年まで過ごす。薬王寺町の家は借地で、長昌寺(曹洞宗)の隣りであった。この時期を勝手に「薬王寺町時代」と呼んでいる。
(以前にも書いたが、なぜ薬王寺に引っ越したのかが腑に落ちない)

大川三雄氏は、大阪市公会堂コンペから大阪高島屋までの約10年(目立つ作品がほとんどない時期)を「十年余りの空白期」と呼んでいるが、これがほぼ「薬王寺町時代」に重なる。
作品では、いくつかの銅像台座と、東京大正博覧会(1914)の後藤毛織会社陳列館ぐらいしか見当たらず、ぱっとしない時期である。
(村井吉兵衛邸のことが問題になるが、別項で書きたい)

この時期の主な出来事をピックアップすると次のようになる。

1912年(大正1年) 大阪市公会堂の設計コンペで1等当選(12月)  
1913年(大正2年) 早稲田大学教授に就任(1月)
1914年(大正3年) 美術新報社の章美賞を受賞(1月)、国民美術協会評議員(6月)、赤十字病院に入院(10月)
1915年(大正4年) 病気療養のため小田原に移転(1~4月頃)、弟・捷五郎が美術学校入学(4月)
1916年(大正5年) 建築条例実行委員会、友人の恒川陽一郎が死去(8月)
1917年(大正6年) 恒川静と内祝言を挙げる(8月)
1918年(大正7年) 都市計画実行委員会、長野宇平治のアメリカ視察中に事務所を任される(10月~8年2月)
1919年(大正8年) 美術館建設期成同盟会に参加、美術館の計画案を作成(4月)、市村座計画案(10月)
1920年(大正9年) 弟・捷五郎が美術学校卒業(3月)、神楽町へ転居(8月頃)、小千谷小学校竣工(12月)

この時期は建築史の研究や、建築学会・国民美術協会の活動に忙しかった。また、世間的に評判を呼んだのは、もと赤坂芸妓の萬龍こと恒川静との結婚である。(夫人のことも後ほど書きたい)

確かに作品面ではぱっとしないが、1919年には次につながる仕事にも着手している。美術館と市村座の設計である。
前者は国立美術館建設への機運が高まってきた中で、おそらく叩き台程度の計画案を作成したのだろう(内容は不明)。国立美術館のはずが、紆余曲折あって東京府美術館を建てることになり、岡田の設計により1926年に竣工することになる。
また、江戸三座の伝統を継ぐ市村座は、二長町では不便ということで、移転計画が度々話題に上っていたものだが、岡田が洋風デザインで劇場の設計図を作成している(国会図書館所蔵)。市村座の移転は実現しなかったが、この仕事は後に歌舞伎座の設計に生かされるはずである。

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