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2011.12.19

OSN048内田祥三の説得

長野宇平治の設計事務所を任されたことは、岡田の転機となったようにも思われる。
長野は日本銀行小樽支店設計の際に、岡田の仕事ぶりをよく見ており、事務所を任せるほど評価していた。
岡田としても、多くの所員をまとめて仕事を進める経験になったことだろう。

少し話は飛ぶが、内田祥三が岡田のもとを訪れ、「帝大教授になるのは無理だから、設計実務の道に進んではどうか」と説得したことがあったらしい。(内田は岡田の1年後輩で、当時は助教授)
もともと岡田は帝国大学教授になることを希望していた。美術学校で長い間講師のままで、教授にならなかったのは、そのためだという。(美術学校教授になると帝大教授になれないという暗黙のルールでもあったのだろうか?)

内田は追悼文で次のように書いている。

岡田君は初めの中は趣味の建築家であつた、銅像の台座、室内装飾、小住宅、こういふものに趣味をもつて居つた(…)学校を出たての岡田君は学問を以て身をたてやうと考へて居つたらしい、従て設計の為に多くの時間を費すことを欲しないでいろいろ頼まれるものの中で自分の最も好きなもの丈けを研学の暇にものにして居つたやうだ(…)
東五軒町時代は少々違うが、確かに薬王寺町時代は「銅像の台座」ばかりやっていた印象がある。
岡田君が学問を以てして立派に世の中に擢(ぬき)んで行ける人なることは申す迄もない、然し当時の岡田君にはそうしてやつて行ける様な適当な位置がなかつた、ある日僕は岡田君に「君は現在学問を主とし設計の方は単に余技としてやつて居る様だがこれを逆にいつてみる気はないか」と聞いてみた、「そんなことはおれはいやだ」といふのが岡田君の答であつた。いやなことをすゝめるのは好ましくはないが僕の考へではあの際どうも岡田君としては設計の方面へ向つて行く方が君の為めに有利だと思はれた
内田がその後も何度か説得を重ねたところ、
漸次に反対の議論はうすらいで来たのを感じた、その後半歳程たつてから岡田君が所謂建築士として働き出したことを聞いた
内田が説得に当たった時期はいつなのかが気になる。

「所謂建築士として働き出した」という言葉は具体的に何を指すのだろうか。
・1918年10月~1919年2月の長野宇平治の外遊中、事務所長代理を引き受けたことを指す?
・1919年に岡田が美術館や市村座の計画案を作成したことを指す?
・1920年8月頃、神楽町に転居したことを指す?

内田の回想しか資料がないので、何とも言えないが、岡田が長野の事務所長代理を引き受けたのも、内田の説得を受けて設計実務中心に転換するつもりになったからではないか?とも想像しているが、どうだろうか。

その後、岡田・内田の恩師でもある中村達太郎教授は、1920年11月に満60歳で退官した。
内田は1921年1月に教授に昇任し、逓信省にいた岩元禄が同じ月に助教授に就任した。

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