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2011.12.17

OSN046伊達跡の美術家村(続)

その後、小山内薫も結婚後の新居として、美術家村に引っ越してきた。(1911年。小山内は1913年12月に外遊するまでの期間、伊達跡で過ごした)

…どうも岡田信一郎に関係のない話が続いたので、関係のある話をする。

(その1)日比谷邸の話
(洋画家の岡田三郎助が書いている回想、建築雑誌1932年5月)
三郎助が初めて岡田に会ったのは「工科大学卒業式の作品陳列会」のとき(1906年?)らしい。

それから、二三年後の事同君 [岡田信一郎] が、品川の日比谷邸の邸宅の建築に関係された時、食堂と、小サロンの仕切の板戸に、表裏に何か装飾画を描て呉れないかといふ話です。
品川の日比谷邸と言えば、日比谷平左衛門邸であろう。洋館は清水組の設計施工で、北村耕造が担当し、1907年に竣工した。
引受けた私は漸く描き上げたので、同君と一緒に先方を訪ね、帰りにあの品川の御殿山の下から長い道を種々話し乍らぶらりぶらり歩いて、伊達跡まで帰る途中、長者丸の所から私 [三郎助] の家が見へ、あれが私の家だと云つたら、何んだ温室見たいな家だな、とはあの軽快な口から出た言葉であつた。
「温室見たいな家」というと、南側にガラスを多く使った住宅だったのだろう。三郎助が伊達跡に引っ越すのは1908年春(岩村透が引っ越した翌年)である。従って、日比谷邸を訪ねたのは、1908年以降のはずである。

※日比谷邸の建設に岡田はどの程度関わったのだろうか。三郎助の知り合いということで、北村か田辺あたりに仲介を頼まれただけでは…とも考えたが、日比谷邸で「装飾画」の納品に立ち会っていることから考えると、施工段階まで関わっていたのかもしれない。
※三郎助は、日比谷邸の一件は岡田が美術学校に勤めるより前のことのように書いているが、実際には1907年5月から嘱託になっているので、少々記憶が前後しているようだ。

(その2)美術家村の山賊会の話
(合田清の回想)
あるとき、沼田一雅の仕事場で飲みかつ食いながら徹夜で話し合う集まり(山賊会)が行われた。美術家村の住民の他、美術学校の正木直彦校長、和田英作、岡田信一郎、古宇田実、藤島武二、香取秀真、津田信夫、長原孝太郎や、小林伝次郎(吾楽のパトロン)らが集まったという。
岩村が万事指図し、山の中の砦という趣向であった。中央の炉で肉を焼き山刀で切って食べたり、砦に誘拐された女に見立てた「下谷で常に美術家連中の贔屓にする美妓十数人」が酒の酌をしていた。

この集まりがあった時期はよくわからないのだが、あるいは1913年頃ではないかと想像している。(理由は省略)

岩村透が伊達跡から本郷・龍岡町27(東大龍岡門の近く)に転居した時期は1912年(明治45年)のようである。この年7月の読売新聞に龍岡町の岩村邸を訪ねた記事が載っている。まだ建設の途中で、洋間のない純和風の住宅である。
転居の理由は健康問題らしく、「十三松堂日記」(1912年2月6日)には「岩村男近ころ糖尿病を患ひて疲労甚しく下渋谷より通勤することの懶くて近き所より通はん」と、学校近くに家を探す様子が記されている。

1913年に設立された国民美術協会事務所は当初、本郷区龍岡町の岩村邸に置かれた。

伊達跡にはまだ何人もの美術家が住んでおり、美術家村が無くなった訳ではないが、岩村が転居してしまったことは一つの区切りとなった感がある。

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コメント

本文に「三郎助が伊達跡に引っ越すのは1908年春」と書きました。
ところで「渋谷ユートピア」の図録を読むと、地主(松本家)の地代の帳簿が残っており、明治39年9月(1906年)から土地を借りていたそうです。
(ただ、この時点では、住宅は完成していないはずですが…) 

年代については再考してみます。

投稿: 岡田ファン | 2012.02.01 23:22

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