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2011.12.16

OSN045伊達跡の美術家村

岩村透、岡田三郎助、小山内薫と名前が出たところで、下渋谷、伊達跡の美術家村についても書いておきたい。

ちょうど第1回の文部省展覧会(文展)が開かれる頃のこと。
1907年(明治40年)9月、岩村が渋谷村(大字下渋谷字伊達跡)に土地を借り、自邸を建てた。洋風応接間のある住宅(全体には和風)で、大澤三之助が設計に当たった。
当時は電気・水道も通っていない郊外の一角であった。岩村は広尾から市電に乗って上野の美術学校に通ったという。

郊外で1人は寂しい、と友人を誘い、岡田三郎助、沼田一雅、辻永、北蓮蔵、杉浦非水、合田清、金田兼次郎らが移り住むようになって、伊達跡・伊達前のあたりは「美術家村」の観を呈した。
美術学校や白馬会の関係者で、美術学校教員の4人(岩村、岡田(三)、沼田、合田)には既にフランス留学経験があることも注意される。
美術家村の住民は毎夜、岩村邸や岡田(三)邸、沼田邸、合田邸などに集まっては遅くまで雑談をして過ごした。

そして、小山内薫が市川左団次と組んで新劇運動「自由劇場」の公演(1909年11月)を行う際に、打ち合わせをしたのは岡田三郎助邸だったという話もある。

岩村氏は新らしく踏み出す以上は、世間をアッと言はせる程のものを演じなければ不可ない、と言ふ意見であつた、そして岩村氏の博識と能弁とは、血気にさかる若い者の心を動かすのには充分の力があつた (三郎助の妻で小山内の妹、岡田八千代の話)

岩村透君が巴里の美術家仲間の話を始めて仏蘭西の美術界を左右するものは、主義でもなく、主張でもなく、たゞ『アミイ』の力であると言つた。この『アミイ』は普通の友人の関係を通り越して、寧ろ親分子分の関係に近いものだといふことであつた。(…)『ボルクマン』の試演にあれだけの準備をすることが出来たのは、全く斯の『アミイ』の力だと思ふ。 (自由劇場の顧問、島崎藤村の話)

親分子分と言うとまた違和感があるが、「アミイの力」というのは中々よい言葉だと思う(原語で何というのだろう)。

自由劇場の第1回の演目として、岩村はハウプトマンの「夜明け前」を薦めたが、上演禁止になるおそれがあるということで、藤村の推すイプセン「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を上演することに決まった。

舞台装置は、美術学校の古宇田実が担当した。
「ボルクマン」の翻訳は、小山内が(亡父の縁で)森鴎外に頼んだ。鴎外は小説「青年」の中で「ボルクマン」初演の様子を描いている。

(以下の引用文は、ボルクマン初演後の情景だろう)

有楽座の自由劇場のはねた後東洋軒で渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。 (木下杢太郎の話)

(自由劇場第1回公演の頃、ちょうど岡田信一郎は病気療養中だった。多くの美術学校関係者が公演を手伝ったので、病気でなければ岡田も手伝っていたかもしれない。)

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コメント

じつは今日初めて知ったのですが、松濤美術館で「渋谷ユートピア1900-1945」という展覧会を開催しており、「伊達跡画家村」が一つの柱になっているようです!
http://www.shoto-museum.jp/

それを知っていれば、展示を見てからこの一文を書いたと思うのですが…
まあ、近々行ってみてきます。(1月29日まで)

投稿: 岡田ファン | 2011.12.19 23:00

例のカフェプランタンの2人、松山省三と平岡権八郎も、時期は不明ですが「画家村」に住んでいた模様です。

投稿: 岡田ファン | 2012.02.01 20:11

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