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2011.12.15

OSN044カフェプランタン

岡田の初期の仕事にカフェプランタンがある。
銀座煉瓦街の中の一区画を模様替えしたもので、建築史上はどうということのない物件であるが、「日本最初のカフェ」として、近代日本の文化史・風俗史上に名を残している。

カフェプランタンは1911年(明治44年)3月、京橋区日吉町(今の銀座8丁目)に開店した。

そのころ、日本にはカフエというものが全くなかった。たまたまそれに類似した機能を持つ家を求めるとしたら、ミルクホールか、殺風景なビヤホール、一品料理屋であった。そうでなければ煩瑣な手続きを要する待合だった。悠々と話し込んだり、人を待ち合せたりするのに都合のいいような家、ヨーロッパのカフエのようなものが欲しいという話が新帰朝の画家たちや若い文学者の間に交された。やがて、松山省三氏、平岡権八郎氏らの手によってカフエプランタンが生まれたのである。後押には小山内薫氏など、マネージーには近藤栄蔵氏がなった。(…)
造作は古宇田実氏、岡田信一郎氏等の指導で改造し、当時まだ若かった岸田劉生、青山熊治、岡本帰一らの人々が手伝った (安藤更正「銀座細見」) 
ここに名の出てくる人物を見ておく。
松山省三は1884年(明治17年)生まれ。東京美術学校西洋画撰科を明治40年に卒業。パリ留学を夢見ていたが、義父が相場で失敗したため、留学をあきらめたという。
平岡権八郎は1883年生まれ(岡田と同年)。白馬会研究所に通い、松山の「絵の仲間」だった。新橋の料亭・花月楼の跡取りである。
岸田劉生、岡本帰一、青山熊治は、松山・平岡より若い世代で、やはり白馬会研究所や美術学校で洋画を学んでいた。

これらの顔ぶれをみると、どうも美術学校教授で白馬会会員の岡田三郎助あたりがあやしい。松山は、美術学校で岡田三郎助から学んだらしい(?)し、小山内薫(「カフェプランタン」の名付け親)は、岡田三郎助の義兄にあたる。

また、パリの美術学生の生活ぶりを若い学生たちに伝え、異国への憧れをかきたてていたのは、やはり美術学校教授、白馬会会員で美術評論家の岩村透である。

欧羅巴主義の移入を促進せしめたものとして私は岩村透が明治三十六年に上梓した「巴里の美術学生」と云ふ小冊子のあることを忘れない。この本は当時の美術学生に限らず多くのアマトウル(注:amature)青年に多大の影響を与へてゐる。東京に藝術家の集るやうなクラブやサロンが殆どないことを慨(なげ)いたのも岩村透であつた。(…)彼は初めて巴里に於けるカフヱエの役割を日本にも教へたのであつた。(野田宇太郎「パンの会」)
(このあたりの事情は今橋映子氏の「異都憧憬 日本人のパリ」に書いてあったと思う)

勝手に想像するに、岩村が松山にカフェ開業を焚き付け、資金力のある平岡が賛同し、改装工事にあたっては岩村・岡田(三)の呼びかけで周囲の若者が集まったのではないか…。いずれにしても、カフェプランタンは美術学校人脈を背景に生まれたのであった。
また、美術学校関係者が集まる「吾楽会」が1909年に結成されているが、そのギャラリー「吾楽殿」(古宇田実設計)がプランタン近くの八官町(銀座8丁目)に開店したのも、プランタン開店直後の1911年4月であった。

※松山本人は、どうした訳か「荷風全集」月報で、プランタンはイギリス帰りの矢部氏が設計(矢部金太郎?)、と書いているが、戦前の「文芸春秋」などでは、岡田・古宇田の設計、と書いており、こちらが正しいであろう。

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