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2011.12.09

OSN042「紳士住宅図案」再考

「鳩山邸の間取り」のところでふれた「紳士住宅図案」について。
これは東京勧業展覧会(1911年3月~)に出展されたもので、清水組の田辺淳吉と岡田の連名となっている。
(近代デジタルライブラリー「東京勧業展覧会出品建築図案集」の15/85、16/85)

岡田の一文「高木博士邸の建築」(1913年)を読み直していて気が付いたのだが、次の箇所は「紳士住宅図案」のことを指しているようだ。

以前自分が清水方で手伝つて居た時、某邸の仮設計を田辺工学士と相談して、意匠した事があつたが、其時も矢張り先方主人の注文で、各室共南面にした、従つて細長いものを意匠した。これは案ばかりで実施はされなかつたが、愉快な住良い家が出来ると信じて居た。
岡田が田辺と相談して設計、各室南向き、細長い住宅、と言えば、まさに「紳士住宅図案」の内容と一致する。
Sinsi

平面を見ると、玄関を入るとまず居間(兼ビリヤードルーム)がある。右手に書斎、奥へ進むと食堂があり、さらに奥の方には子供部屋などが並んでいる。
施主はビリヤード好きで、子供のいる人物…さて、誰だろう?

また、「下渋谷ノ高地」と具体的な地名が添えられているが、この点が謎である。
配置図を見ると、南側にやや曲がった道があるのだが、下渋谷付近に実際このとおりの敷地があったのかどうか。当時の地図で探してみたが見つからなかった。
(「郊外」のイメージを持つ場所として下渋谷あたりを想定したのかも…)

さて、この図面は富本憲吉が描いたという説が有力である。
富本の自伝より引用。(1981年口述)

英国から帰って翌年、私の美術学校時代の建築の先生、岡田信一郎先生の口利きで清水組にはいりました。それは岡田先生のデザインに成る住居の建築、特にそのパースペクティブを水彩仕上げとした図を書くためのようなものでした。その時、建築協会主催の展覧会に清水組から出した岡田さんのデザインで私の製図の図に、岡田さんと私とが各三百円ずつ賞金を貰ったことがあります。 
(富本の帰国は1910年である。ただし、別の文章では、清水組に入ったのは大澤三之助の紹介とも書いている)

岡田が「紳士住宅図案」(の原案)を手がけたのはいつのことだろうか。
「東京銀行」の項で、岡田が在籍したのは1年ぐらい?と書いたが、これが正しければ1906~1907年頃ということになる。そうすると、富本が1911年に仕上げるまでに4~5年の間が空いてしまうのか…?

やはり富本には清水組の仕事(帝大出の技師の下働き)が性に合わなかったようだ。「せっかくロンドンで勉強してきたのにもったいない…」と、見かねた岡田が、未完の旧作を取り出して、「今度の展覧会用に仕上げて、出してみたらどうか」と持ちかけたのではないだろうか。(全くの推測だが)

※富本憲吉は工芸家。東京美術学校図案科で大澤三之助、岡田信一郎に学んだ。卒業が決まると私費でロンドンに留学(1908年10月~1910年6月)。ウイリアム・モリスの作品から多くを学んだ。帰国後、一時清水組に在籍。まもなく退社し、やがて陶芸家の道を歩んだ。「青鞜」同人の尾竹紅吉(一枝)と結婚(1914年)。後に第一号の人間国宝。
※東京勧業展覧会の賞金額については未確認。

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