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2011.12.06

OSN039警視庁

これも岡田が初期に関わった物件。
岡田は1906年(明治39年)に大学卒業後、警視庁嘱託になり、新庁舎(1910年竣工)の建設に携わった。

当時の警視庁は鍛冶橋内にあったが、1882年(明治15年)に建てられたもので老朽化していたこと、狭あいであったこと、また、建設が決まった中央停車場(東京駅)の敷地に当ることから、日比谷堀端に移転新築することになった。
帝国劇場(設計横河工務所)の隣接地で、帝劇の方は1907年着工・1911年竣工(同年3月1日開場式)だから、両者の工事は並行して進んだことになる。

庁舎の設計を担当したのは警視庁技師の福岡常治郎である。福岡は1896年帝国大学建築学科を卒業、1905年の職員録では警視庁警視総監官房第三課の技師となっている。移転計画や新庁舎建設の基本設計などは福岡がまとめていたことだろう。
着工を控えた1906年5月に、辰野金吾が工事顧問に就いた。(ちなみに東京駅の設計が決まるのは、この年の12月)
岡田が警視庁に勤めることになったのは「辰野博士の推輓に依つたのであらう」と、長野宇平治は書いている。

さて、警視庁庁舎の着工時期だが、「警視庁史 明治編」では「明治39年8月8日に着工」とある。岡田が嘱託になるのはこの直前の7月だから、基本設計は既に福岡が済ませていたはずである。
※警視庁着工の時期について、技師・福岡が新聞記者に語った談話に「新築事務に着手せしは去る四十年二月」云々ともあって、少々疑問も残るが、ひとまず「警視庁史」に従う。

後に岡田自身は次のように言っている。

警視庁のたてものは赤煉瓦の雑然とした纏りの無い、嫌な建築であつたが、私には想ひ出の深いものであつた。私が大学の建築科を出て、先づ第一に奉公したのは警視庁の営繕課であつて、其処の技師の下に嘱託として七八ヶ月働いた。(…)私は遺憾乍ら此の設計の充分纏らない中に警視庁を去つたけれど。其後此の建物の所々には私の描いたデテールがくつゝいて居た。下働をして一部をやつたのだから、無論処女作とは言へないけれど、兎に角、自分が学校を出て先づ第一に手伝つた建物だから、其良否に係らず懐かしい気がする。
細部では岡田がデザインに腕をふるう余地も少しあったようだが、むしろ本格的な庁舎建築の実務に関わり、学ぶところが多かったと思われる。地盤が悪く、思うように基礎工事が進まない難工事だったようである。
ところで同じ文中に次のようにあるのは気になる。
何分廿四五の新学士とて生意気な事もあつたのだらう。所謂「首」になつて、其際上野の山奥に遁げ込んだ。
警視庁をクビになって、美術学校に行った、というのだが、額面通り受け取ってよいのだろうか?

警視庁の玄関上部にある大きなアーチは特徴的だが、これが大阪市公会堂のデザインソースの一つという指摘がある。曽禰達蔵は「岡田君の設計に係る大阪中之島公会堂の正面中央の手法は略(ほぼ)(…)警視庁々舎のこれに類して居る」と語っている。
これは辰野金吾好みのデザインでもあったことだろう。

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コメント

警視庁の着工は1906年(M39)8月8日、という「警視庁史」の記述の典拠は、どうも新聞記事ではないかと推測。
「警視庁新築工事は去一日より着手」と同年8月8日の朝日新聞にあります。
10月28日の記事に続報があり、「既に板囲ひをなし工事に着手したるが、同所の地盤は軟弱にして且設計の当時地所の見積を誤り非常に狭隘なるを以て予算額に於ては到底充分なる建築をなし得ざるにより其追加支出を国庫に要求すべく協議中なり」とのこと。
急な設計変更や、工事の中断といった事態になっていたのかもしれません。
1908年2月27日の記事には「昨年二月に起工せし(略)警視庁新庁舎の建築工事」とあります。秋の洪水で工事が一時中断ということもあり、まだ杭打ちの最中だったそうです(機械を4台使い、1万5千本の松杭を打った)。
いずれにしても、岡田は1907年5月1日付けで警視庁を辞めており、その当時はまだ基礎工事の段階でした。

投稿: 岡田ファン | 2015.10.25 02:24

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