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2011.12.14

OSN043卒業後の状況

 
西暦19061907190819091910191119121913
和暦3940414243444502
大学院     
警視庁         
清水組        
工手学校       
東京美術学校   
建築学会役員   
日本銀行      
日英博覧会        
台湾総督府        
早稲田大学      

岡田が大学を卒業してから、どこで仕事をしていたのか、表にまとめてみた。以下補足。

○大学院…1906年7月に大学を卒業し、9月に大学院に進んだ。1911年まで、5年間在籍したようだ。
○警視庁…警視庁庁舎設計のため、卒業と同時に1906年7月から1907年5月まで嘱託として籍を置いた。庁舎は1906年8月着工で、1911年3月に竣工した。
○清水組…在籍期間ははっきりしない。正式な入社ではなく、嘱託か。清水組が設計施工を行った東京銀行(1907年9月着工、翌年12月竣工)の設計を担当したことが知られている。着工時期から考えると、警視庁の在籍期間と設計時期が重なるようである。
○工手学校…1907年2月に講師になった。いつまで勤めたか不明。
○東京美術学校…1907年5月に嘱託になった。(1923年、教授に就任。亡くなるまで勤める)
○建築学会役員…1908年2月にはじめて役員に選出され、以後ほぼ毎年のように役員になった。1909年9月、病気のため辞任するが(例の洋行のチャンスを逃したとき)、1910年1月に再び選出された。1912年は役員に選出されていないが、「文様集成」委員会などに加わった。
1909年、1911年、1913年~は「建築雑誌」の編集も担当した。
○日本銀行…1908年3月~1911年12月まで嘱託として在籍し、日本銀行小樽支店を担当。
○日英博覧会…1909年5月29日付けで嘱託となったが、病気のため、9月に前田松韻が後任になった。(「岡田と洋行」の項)
○台湾総督府…1910年7月から10月まで嘱託となった。
これより先、1907~1908年に台湾総督府庁舎の設計コンペが2年がかり(2段階)で行われ、長野宇平治の案が(1等なしの)2等に当選した。岡田は長野が応募する際に手伝っており、その関係で嘱託になったのかもしれない。ただし期間も短いし、具体的な仕事内容はよくわからない。
○早稲田大学…早稲田大学建築学科は佐藤功一を中心に1910年9月に開設された。岡田は1911年2月に講師となり、翌1912年1月に教授に就任した。 (1931年まで勤める)

※この他、曽禰達蔵が設計事務所が開設したばかりの頃(1908年頃?)、「新設計の依頼を受け、手回りかねて其或る部分を一二度岡田君に御手伝を煩はしたることもあつた」という。短期間のアルバイトであろう。

こうして見ると、病気のため洋行をし損ねたのも、働きすぎが一因だったのかも…?
様々な職場で仕事をしたこの時期は、岡田の修業時代であった。

ちょうどこの頃は東五軒町に住んでいた時期なので、勝手に「東五軒町時代」と呼んでいる(1912年11月に薬王寺町に転居)。
また特に警視庁、日本銀行では辰野金吾の指導の下で実務を身に付け、大阪市公会堂の設計コンペ(1912年)では1等当選を果たし、辰野の期待に応えた。この点で岡田の「辰野スクール時代」と呼んでもよいのでは、と思う。

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