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2011年12月の22件の記事

2011.12.29

元麻布の一軒家レストラン

たまたま検索ランキングで見たお店の情報です。(いつ頃の建物?)

ル・レカミエ

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2011.12.21

OSN050村井吉兵衛邸

たばこ王と呼ばれた村井吉兵衛が山王台(永田町二丁目、現在日比谷高校がある場所)に建てた邸宅について、2005年に一文をまとめたことがある。

村井吉兵衛邸(山王荘)をめぐって

実を言うと、今のところ村井邸と岡田信一郎の関係を示す資料は「山王荘図集」(洪洋社)しか見当たらず、もう少し裏付けがほしいところである。同じ洪洋社刊行の「住宅外装集」(1938年)にも村井邸が紹介されているが、ここでは単に「小林富蔵氏設計」としている。

2005年当時は小林の没年などが不明だったのだが、その後資料が見つかった(単純な見落としで、お恥ずかしい限り)。
補足しておくと、小林は1872年(明治5年)12月生まれで、1935年(昭和10年)4月21日に死去した。
養子の小林徳(岡田信一郎の事務所に在籍し、明治生命館の工事に従事したこともある。旧姓館野)が「小林富蔵」の名を継ぎ、しばらく活動を続けた。ただし、その後の消息はよくわからない。
六本木にあった山尾三郎邸、赤坂の虎屋、浅野八郎邸(岡田捷五郎設計)、正木記念館(1935年7月竣工、金沢庸治設計)なども小林組の施工作品である。(「土木建築業並関係業者信用録 昭和11年度版」)

また行方のわからなかった茶室の一部が根津美術館に移築されていることもわかった。
(「東京都の近代和風建築」によれば、1931年に赤坂の大倉邸に移築され、戦後に再び移築)

先の一文では敷地内にあった洋館についてふれなかったが、これは吉武長一設計、清水組施工で1912年7月起工、1913年(大正2年)5月に竣工した(「建築工芸叢誌」第2期2号)。
その後、洋館は1924年に設立された日仏会館のため、村井吉兵衛から無償で提供されることになった。村井の逝去後、敷地が売却される際はいったん解体され、部材がフランス大使館の敷地内に保管された。
その後、神田駿河台に移築され、図書室などを建て増して、引き続き日仏会館として使われた。
(「日本建築士」1931年4月号によれば、工事期間は1928年10月~1929年6月で、吉武建築事務所設計、大林組施工である)
この洋館は戦後の1958年まで使われたが、新たに日仏会館を建てるため、解体された。再び移築されてゴルフ場のクラブハウスになるという話があったようだが、どうなったのかわからないらしい。(「日仏文化」1974年)

なお、ガーディナー設計の村井吉兵衛邸(明治45年頃)が「図面で見る都市建築の明治」に掲載されているが、これは別の場所(永田町一丁目、自民党本部あたりか)にあった方の村井邸だと思う。

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2011.12.20

OSN049神楽町へ

岡田信一郎は1920年(大正9年)に牛込区神楽町(現新宿区神楽坂)2丁目22、23の家2軒と土地を購入し、自宅及び事務所とした。東京物理学校のすぐ近くである。

引越したのは8月末か9月で、移転の理由は、事務所のスペースを確保し、設計の仕事を増やせるようにするためであろう。神楽町は恩人の石黒忠悳の自宅(揚場町)に近いほか、飯田橋駅が近く交通の便がよい。
夫人が花柳界出身なので、三業地のある神楽町にしたのだろうと想像する人もいるようだが、関係ないと思う。

神楽町に移る頃から大阪高島屋のような規模の大きな仕事が入るようになってきた。大阪高島屋は1921年5月着工、1922年9月竣工で、1920年中には設計が始まっていたと思われる。
1921年10月に漏電のため焼失した歌舞伎座についても、同年11月に岡田の設計により再建することが決まった。(早稲田での教え子、三井道男が入所するのも同じ11月)
12月には徳富蘇峰が青山の自宅を提供し、岡田の設計により青山会館を建設することが発表された。

神楽町の家についてエピソードがある。岡田に家・土地を売った元の所有者某氏が、別の人からも手付金を受け取っていた。手付金の返還をめぐって訴訟となり、(岡田側には責任もないのだが)証人として呼び出された。岡田は都合が悪かったのか、代わって夫人が出廷し、「萬龍さんが法廷に」ということで新聞沙汰になるという一幕があった。
(裁判がその後どうなったのかはわからない)

岡田は1932年に亡くなるまでこの家で過ごし、多くの作品を生み出した。そこでこの時期を勝手に「神楽町時代」と呼んでいる。
岡田の没後は、弟の捷五郎が事務所を引き継いだ。
建物は1945年の空襲で焼失し、その後捷五郎が自宅を再建するが、東京理科大学が敷地を拡張するため用地買収された。現在は大学の敷地の一部となっており、当時の面影は何もない。

【余談】中村吉右衛門、川合玉堂の家が近くにあった。

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2011.12.19

OSN048内田祥三の説得

長野宇平治の設計事務所を任されたことは、岡田の転機となったようにも思われる。
長野は日本銀行小樽支店設計の際に、岡田の仕事ぶりをよく見ており、事務所を任せるほど評価していた。
岡田としても、多くの所員をまとめて仕事を進める経験になったことだろう。

少し話は飛ぶが、内田祥三が岡田のもとを訪れ、「帝大教授になるのは無理だから、設計実務の道に進んではどうか」と説得したことがあったらしい。(内田は岡田の1年後輩で、当時は助教授)
もともと岡田は帝国大学教授になることを希望していた。美術学校で長い間講師のままで、教授にならなかったのは、そのためだという。(美術学校教授になると帝大教授になれないという暗黙のルールでもあったのだろうか?)

内田は追悼文で次のように書いている。

岡田君は初めの中は趣味の建築家であつた、銅像の台座、室内装飾、小住宅、こういふものに趣味をもつて居つた(…)学校を出たての岡田君は学問を以て身をたてやうと考へて居つたらしい、従て設計の為に多くの時間を費すことを欲しないでいろいろ頼まれるものの中で自分の最も好きなもの丈けを研学の暇にものにして居つたやうだ(…)
東五軒町時代は少々違うが、確かに薬王寺町時代は「銅像の台座」ばかりやっていた印象がある。
岡田君が学問を以てして立派に世の中に擢(ぬき)んで行ける人なることは申す迄もない、然し当時の岡田君にはそうしてやつて行ける様な適当な位置がなかつた、ある日僕は岡田君に「君は現在学問を主とし設計の方は単に余技としてやつて居る様だがこれを逆にいつてみる気はないか」と聞いてみた、「そんなことはおれはいやだ」といふのが岡田君の答であつた。いやなことをすゝめるのは好ましくはないが僕の考へではあの際どうも岡田君としては設計の方面へ向つて行く方が君の為めに有利だと思はれた
内田がその後も何度か説得を重ねたところ、
漸次に反対の議論はうすらいで来たのを感じた、その後半歳程たつてから岡田君が所謂建築士として働き出したことを聞いた
内田が説得に当たった時期はいつなのかが気になる。

「所謂建築士として働き出した」という言葉は具体的に何を指すのだろうか。
・1918年10月~1919年2月の長野宇平治の外遊中、事務所長代理を引き受けたことを指す?
・1919年に岡田が美術館や市村座の計画案を作成したことを指す?
・1920年8月頃、神楽町に転居したことを指す?

内田の回想しか資料がないので、何とも言えないが、岡田が長野の事務所長代理を引き受けたのも、内田の説得を受けて設計実務中心に転換するつもりになったからではないか?とも想像しているが、どうだろうか。

その後、岡田・内田の恩師でもある中村達太郎教授は、1920年11月に満60歳で退官した。
内田は1921年1月に教授に昇任し、逓信省にいた岩元禄が同じ月に助教授に就任した。

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2011.12.18

OSN047薬王寺町の頃

岡田は1912年(大正元年)11月に牛込区の東五軒町から薬王寺町14に引っ越し、1920年まで過ごす。薬王寺町の家は借地で、長昌寺(曹洞宗)の隣りであった。この時期を勝手に「薬王寺町時代」と呼んでいる。
(以前にも書いたが、なぜ薬王寺に引っ越したのかが腑に落ちない)

大川三雄氏は、大阪市公会堂コンペから大阪高島屋までの約10年(目立つ作品がほとんどない時期)を「十年余りの空白期」と呼んでいるが、これがほぼ「薬王寺町時代」に重なる。
作品では、いくつかの銅像台座と、東京大正博覧会(1914)の後藤毛織会社陳列館ぐらいしか見当たらず、ぱっとしない時期である。
(村井吉兵衛邸のことが問題になるが、別項で書きたい)

この時期の主な出来事をピックアップすると次のようになる。

1912年(大正1年) 大阪市公会堂の設計コンペで1等当選(12月)  
1913年(大正2年) 早稲田大学教授に就任(1月)
1914年(大正3年) 美術新報社の章美賞を受賞(1月)、国民美術協会評議員(6月)、赤十字病院に入院(10月)
1915年(大正4年) 病気療養のため小田原に移転(1~4月頃)、弟・捷五郎が美術学校入学(4月)
1916年(大正5年) 建築条例実行委員会、友人の恒川陽一郎が死去(8月)
1917年(大正6年) 恒川静と内祝言を挙げる(8月)
1918年(大正7年) 都市計画実行委員会、長野宇平治のアメリカ視察中に事務所を任される(10月~8年2月)
1919年(大正8年) 美術館建設期成同盟会に参加、美術館の計画案を作成(4月)、市村座計画案(10月)
1920年(大正9年) 弟・捷五郎が美術学校卒業(3月)、神楽町へ転居(8月頃)、小千谷小学校竣工(12月)

この時期は建築史の研究や、建築学会・国民美術協会の活動に忙しかった。また、世間的に評判を呼んだのは、もと赤坂芸妓の萬龍こと恒川静との結婚である。(夫人のことも後ほど書きたい)

確かに作品面ではぱっとしないが、1919年には次につながる仕事にも着手している。美術館と市村座の設計である。
前者は国立美術館建設への機運が高まってきた中で、おそらく叩き台程度の計画案を作成したのだろう(内容は不明)。国立美術館のはずが、紆余曲折あって東京府美術館を建てることになり、岡田の設計により1926年に竣工することになる。
また、江戸三座の伝統を継ぐ市村座は、二長町では不便ということで、移転計画が度々話題に上っていたものだが、岡田が洋風デザインで劇場の設計図を作成している(国会図書館所蔵)。市村座の移転は実現しなかったが、この仕事は後に歌舞伎座の設計に生かされるはずである。

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2011.12.17

OSN046伊達跡の美術家村(続)

その後、小山内薫も結婚後の新居として、美術家村に引っ越してきた。(1911年。小山内は1913年12月に外遊するまでの期間、伊達跡で過ごした)

…どうも岡田信一郎に関係のない話が続いたので、関係のある話をする。

(その1)日比谷邸の話
(洋画家の岡田三郎助が書いている回想、建築雑誌1932年5月)
三郎助が初めて岡田に会ったのは「工科大学卒業式の作品陳列会」のとき(1906年?)らしい。

それから、二三年後の事同君 [岡田信一郎] が、品川の日比谷邸の邸宅の建築に関係された時、食堂と、小サロンの仕切の板戸に、表裏に何か装飾画を描て呉れないかといふ話です。
品川の日比谷邸と言えば、日比谷平左衛門邸であろう。洋館は清水組の設計施工で、北村耕造が担当し、1907年に竣工した。
引受けた私は漸く描き上げたので、同君と一緒に先方を訪ね、帰りにあの品川の御殿山の下から長い道を種々話し乍らぶらりぶらり歩いて、伊達跡まで帰る途中、長者丸の所から私 [三郎助] の家が見へ、あれが私の家だと云つたら、何んだ温室見たいな家だな、とはあの軽快な口から出た言葉であつた。
「温室見たいな家」というと、南側にガラスを多く使った住宅だったのだろう。三郎助が伊達跡に引っ越すのは1908年春(岩村透が引っ越した翌年)である。従って、日比谷邸を訪ねたのは、1908年以降のはずである。

※日比谷邸の建設に岡田はどの程度関わったのだろうか。三郎助の知り合いということで、北村か田辺あたりに仲介を頼まれただけでは…とも考えたが、日比谷邸で「装飾画」の納品に立ち会っていることから考えると、施工段階まで関わっていたのかもしれない。
※三郎助は、日比谷邸の一件は岡田が美術学校に勤めるより前のことのように書いているが、実際には1907年5月から嘱託になっているので、少々記憶が前後しているようだ。

(その2)美術家村の山賊会の話
(合田清の回想)
あるとき、沼田一雅の仕事場で飲みかつ食いながら徹夜で話し合う集まり(山賊会)が行われた。美術家村の住民の他、美術学校の正木直彦校長、和田英作、岡田信一郎、古宇田実、藤島武二、香取秀真、津田信夫、長原孝太郎や、小林伝次郎(吾楽のパトロン)らが集まったという。
岩村が万事指図し、山の中の砦という趣向であった。中央の炉で肉を焼き山刀で切って食べたり、砦に誘拐された女に見立てた「下谷で常に美術家連中の贔屓にする美妓十数人」が酒の酌をしていた。

この集まりがあった時期はよくわからないのだが、あるいは1913年頃ではないかと想像している。(理由は省略)

岩村透が伊達跡から本郷・龍岡町27(東大龍岡門の近く)に転居した時期は1912年(明治45年)のようである。この年7月の読売新聞に龍岡町の岩村邸を訪ねた記事が載っている。まだ建設の途中で、洋間のない純和風の住宅である。
転居の理由は健康問題らしく、「十三松堂日記」(1912年2月6日)には「岩村男近ころ糖尿病を患ひて疲労甚しく下渋谷より通勤することの懶くて近き所より通はん」と、学校近くに家を探す様子が記されている。

1913年に設立された国民美術協会事務所は当初、本郷区龍岡町の岩村邸に置かれた。

伊達跡にはまだ何人もの美術家が住んでおり、美術家村が無くなった訳ではないが、岩村が転居してしまったことは一つの区切りとなった感がある。

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2011.12.16

OSN045伊達跡の美術家村

岩村透、岡田三郎助、小山内薫と名前が出たところで、下渋谷、伊達跡の美術家村についても書いておきたい。

ちょうど第1回の文部省展覧会(文展)が開かれる頃のこと。
1907年(明治40年)9月、岩村が渋谷村(大字下渋谷字伊達跡)に土地を借り、自邸を建てた。洋風応接間のある住宅(全体には和風)で、大澤三之助が設計に当たった。
当時は電気・水道も通っていない郊外の一角であった。岩村は広尾から市電に乗って上野の美術学校に通ったという。

郊外で1人は寂しい、と友人を誘い、岡田三郎助、沼田一雅、辻永、北蓮蔵、杉浦非水、合田清、金田兼次郎らが移り住むようになって、伊達跡・伊達前のあたりは「美術家村」の観を呈した。
美術学校や白馬会の関係者で、美術学校教員の4人(岩村、岡田(三)、沼田、合田)には既にフランス留学経験があることも注意される。
美術家村の住民は毎夜、岩村邸や岡田(三)邸、沼田邸、合田邸などに集まっては遅くまで雑談をして過ごした。

そして、小山内薫が市川左団次と組んで新劇運動「自由劇場」の公演(1909年11月)を行う際に、打ち合わせをしたのは岡田三郎助邸だったという話もある。

岩村氏は新らしく踏み出す以上は、世間をアッと言はせる程のものを演じなければ不可ない、と言ふ意見であつた、そして岩村氏の博識と能弁とは、血気にさかる若い者の心を動かすのには充分の力があつた (三郎助の妻で小山内の妹、岡田八千代の話)

岩村透君が巴里の美術家仲間の話を始めて仏蘭西の美術界を左右するものは、主義でもなく、主張でもなく、たゞ『アミイ』の力であると言つた。この『アミイ』は普通の友人の関係を通り越して、寧ろ親分子分の関係に近いものだといふことであつた。(…)『ボルクマン』の試演にあれだけの準備をすることが出来たのは、全く斯の『アミイ』の力だと思ふ。 (自由劇場の顧問、島崎藤村の話)

親分子分と言うとまた違和感があるが、「アミイの力」というのは中々よい言葉だと思う(原語で何というのだろう)。

自由劇場の第1回の演目として、岩村はハウプトマンの「夜明け前」を薦めたが、上演禁止になるおそれがあるということで、藤村の推すイプセン「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を上演することに決まった。

舞台装置は、美術学校の古宇田実が担当した。
「ボルクマン」の翻訳は、小山内が(亡父の縁で)森鴎外に頼んだ。鴎外は小説「青年」の中で「ボルクマン」初演の様子を描いている。

(以下の引用文は、ボルクマン初演後の情景だろう)

有楽座の自由劇場のはねた後東洋軒で渋谷村の連中、岩野氏、蒲原氏、島崎氏、それにわれわれのパン会の一部とが、総勢廿五人ばかり、岩村氏の音頭にてシヤンパンを抜いたりなどした。 (木下杢太郎の話)

(自由劇場第1回公演の頃、ちょうど岡田信一郎は病気療養中だった。多くの美術学校関係者が公演を手伝ったので、病気でなければ岡田も手伝っていたかもしれない。)

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2011.12.15

OSN044カフェプランタン

岡田の初期の仕事にカフェプランタンがある。
銀座煉瓦街の中の一区画を模様替えしたもので、建築史上はどうということのない物件であるが、「日本最初のカフェ」として、近代日本の文化史・風俗史上に名を残している。

カフェプランタンは1911年(明治44年)3月、京橋区日吉町(今の銀座8丁目)に開店した。

そのころ、日本にはカフエというものが全くなかった。たまたまそれに類似した機能を持つ家を求めるとしたら、ミルクホールか、殺風景なビヤホール、一品料理屋であった。そうでなければ煩瑣な手続きを要する待合だった。悠々と話し込んだり、人を待ち合せたりするのに都合のいいような家、ヨーロッパのカフエのようなものが欲しいという話が新帰朝の画家たちや若い文学者の間に交された。やがて、松山省三氏、平岡権八郎氏らの手によってカフエプランタンが生まれたのである。後押には小山内薫氏など、マネージーには近藤栄蔵氏がなった。(…)
造作は古宇田実氏、岡田信一郎氏等の指導で改造し、当時まだ若かった岸田劉生、青山熊治、岡本帰一らの人々が手伝った (安藤更正「銀座細見」) 
ここに名の出てくる人物を見ておく。
松山省三は1884年(明治17年)生まれ。東京美術学校西洋画撰科を明治40年に卒業。パリ留学を夢見ていたが、義父が相場で失敗したため、留学をあきらめたという。
平岡権八郎は1883年生まれ(岡田と同年)。白馬会研究所に通い、松山の「絵の仲間」だった。新橋の料亭・花月楼の跡取りである。
岸田劉生、岡本帰一、青山熊治は、松山・平岡より若い世代で、やはり白馬会研究所や美術学校で洋画を学んでいた。

これらの顔ぶれをみると、どうも美術学校教授で白馬会会員の岡田三郎助あたりがあやしい。松山は、美術学校で岡田三郎助から学んだらしい(?)し、小山内薫(「カフェプランタン」の名付け親)は、岡田三郎助の義兄にあたる。

また、パリの美術学生の生活ぶりを若い学生たちに伝え、異国への憧れをかきたてていたのは、やはり美術学校教授、白馬会会員で美術評論家の岩村透である。

欧羅巴主義の移入を促進せしめたものとして私は岩村透が明治三十六年に上梓した「巴里の美術学生」と云ふ小冊子のあることを忘れない。この本は当時の美術学生に限らず多くのアマトウル(注:amature)青年に多大の影響を与へてゐる。東京に藝術家の集るやうなクラブやサロンが殆どないことを慨(なげ)いたのも岩村透であつた。(…)彼は初めて巴里に於けるカフヱエの役割を日本にも教へたのであつた。(野田宇太郎「パンの会」)
(このあたりの事情は今橋映子氏の「異都憧憬 日本人のパリ」に書いてあったと思う)

勝手に想像するに、岩村が松山にカフェ開業を焚き付け、資金力のある平岡が賛同し、改装工事にあたっては岩村・岡田(三)の呼びかけで周囲の若者が集まったのではないか…。いずれにしても、カフェプランタンは美術学校人脈を背景に生まれたのであった。
また、美術学校関係者が集まる「吾楽会」が1909年に結成されているが、そのギャラリー「吾楽殿」(古宇田実設計)がプランタン近くの八官町(銀座8丁目)に開店したのも、プランタン開店直後の1911年4月であった。

※松山本人は、どうした訳か「荷風全集」月報で、プランタンはイギリス帰りの矢部氏が設計(矢部金太郎?)、と書いているが、戦前の「文芸春秋」などでは、岡田・古宇田の設計、と書いており、こちらが正しいであろう。

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2011.12.14

OSN043卒業後の状況

西暦 1906 1907 1908 1909 1910 1911 1912 1913
和暦 39 40 41 42 43 44 45 02
大学院       
警視庁               
清水組             
工手学校            
東京美術学校    
建築学会役員      
日本銀行          
日英博覧会               
台湾総督府               
早稲田大学           

 

岡田が大学を卒業してから、どこで仕事をしていたのか、表にまとめてみた。以下補足。

○大学院…1906年7月に大学を卒業し、9月に大学院に進んだ。1911年まで、5年間在籍したようだ。
○警視庁…警視庁庁舎設計のため、卒業と同時に1906年7月から1907年5月まで嘱託として籍を置いた。庁舎は1906年8月着工で、1911年3月に竣工した。
○清水組…在籍期間ははっきりしない。正式な入社ではなく、嘱託か。清水組が設計施工を行った東京銀行(1907年9月着工、翌年12月竣工)の設計を担当したことが知られている。着工時期から考えると、警視庁の在籍期間と設計時期が重なるようである。
○工手学校…1907年2月に講師になった。いつまで勤めたか不明。
○東京美術学校…1907年5月に嘱託になった。(1923年、教授に就任。亡くなるまで勤める)
○建築学会役員…1908年2月にはじめて役員に選出され、以後ほぼ毎年のように役員になった。1909年9月、病気のため辞任するが(例の洋行のチャンスを逃したとき)、1910年1月に再び選出された。1912年は役員に選出されていないが、「文様集成」委員会などに加わった。
1909年、1911年、1913年~は「建築雑誌」の編集も担当した。
○日本銀行…1908年3月~1911年12月まで嘱託として在籍し、日本銀行小樽支店を担当。
○日英博覧会…1909年5月29日付けで嘱託となったが、病気のため、9月に前田松韻が後任になった。(「岡田と洋行」の項)
○台湾総督府…1910年7月から10月まで嘱託となった。
これより先、1907~1908年に台湾総督府庁舎の設計コンペが2年がかり(2段階)で行われ、長野宇平治の案が(1等なしの)2等に当選した。岡田は長野が応募する際に手伝っており、その関係で嘱託になったのかもしれない。ただし期間も短いし、具体的な仕事内容はよくわからない。
○早稲田大学…早稲田大学建築学科は佐藤功一を中心に1910年9月に開設された。岡田は1911年2月に講師となり、翌1912年1月に教授に就任した。 (1931年まで勤める)

※この他、曽禰達蔵が設計事務所が開設したばかりの頃(1908年頃?)、「新設計の依頼を受け、手回りかねて其或る部分を一二度岡田君に御手伝を煩はしたることもあつた」という。短期間のアルバイトであろう。

こうして見ると、病気のため洋行をし損ねたのも、働きすぎが一因だったのかも…?
様々な職場で仕事をしたこの時期は、岡田の修業時代であった。

ちょうどこの頃は東五軒町に住んでいた時期なので、勝手に「東五軒町時代」と呼んでいる(1912年11月に薬王寺町に転居)。
また特に警視庁、日本銀行では辰野金吾の指導の下で実務を身に付け、大阪市公会堂の設計コンペ(1912年)では1等当選を果たし、辰野の期待に応えた。この点で岡田の「辰野スクール時代」と呼んでもよいのでは、と思う。

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2011.12.13

東京駅

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戦災を受ける前の姿に復元する工事が続いている東京駅。
ドーム屋根のあたりが見えるようになってきました。

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これは中央線ホームから。

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2011.12.12

九段会館

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3月11日の震災では天井落下により痛ましい事故が起こってしまいました。
現在も閉鎖されたままの状態です。

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重厚な感じの入口部分です。旧軍人会館というイメージで見てしまいますが、昭和の歴史を伝える建物であり、改修してうまく活用してほしいものだと思います。

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素人考えながら、躯体はかなり頑丈な造りになっているのでは…?スクラッチタイルも大きなサイズのものを使っています。

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昭和館側からみたところ。右手が大ホールになっていました。

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細部装飾は、和風というかライト風というか…。

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2011.12.11

九段下ビル(続)

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2011.12.10

九段下ビル

既に一部の取壊しが始まっていますが、一室だけギャラリーに使われています。(それも今年一杯の模様)
見に行くなら最後のチャンスです。
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2011.12.09

OSN042「紳士住宅図案」再考

「鳩山邸の間取り」のところでふれた「紳士住宅図案」について。
これは東京勧業展覧会(1911年3月~)に出展されたもので、清水組の田辺淳吉と岡田の連名となっている。
(近代デジタルライブラリー「東京勧業展覧会出品建築図案集」の15/85、16/85)

岡田の一文「高木博士邸の建築」(1913年)を読み直していて気が付いたのだが、次の箇所は「紳士住宅図案」のことを指しているようだ。

以前自分が清水方で手伝つて居た時、某邸の仮設計を田辺工学士と相談して、意匠した事があつたが、其時も矢張り先方主人の注文で、各室共南面にした、従つて細長いものを意匠した。これは案ばかりで実施はされなかつたが、愉快な住良い家が出来ると信じて居た。
岡田が田辺と相談して設計、各室南向き、細長い住宅、と言えば、まさに「紳士住宅図案」の内容と一致する。
Sinsi

平面を見ると、玄関を入るとまず居間(兼ビリヤードルーム)がある。右手に書斎、奥へ進むと食堂があり、さらに奥の方には子供部屋などが並んでいる。
施主はビリヤード好きで、子供のいる人物…さて、誰だろう?

また、「下渋谷ノ高地」と具体的な地名が添えられているが、この点が謎である。
配置図を見ると、南側にやや曲がった道があるのだが、下渋谷付近に実際このとおりの敷地があったのかどうか。当時の地図で探してみたが見つからなかった。
(「郊外」のイメージを持つ場所として下渋谷あたりを想定したのかも…)

さて、この図面は富本憲吉が描いたという説が有力である。
富本の自伝より引用。(1981年口述)

英国から帰って翌年、私の美術学校時代の建築の先生、岡田信一郎先生の口利きで清水組にはいりました。それは岡田先生のデザインに成る住居の建築、特にそのパースペクティブを水彩仕上げとした図を書くためのようなものでした。その時、建築協会主催の展覧会に清水組から出した岡田さんのデザインで私の製図の図に、岡田さんと私とが各三百円ずつ賞金を貰ったことがあります。 
(富本の帰国は1910年である。ただし、別の文章では、清水組に入ったのは大澤三之助の紹介とも書いている)

岡田が「紳士住宅図案」(の原案)を手がけたのはいつのことだろうか。
「東京銀行」の項で、岡田が在籍したのは1年ぐらい?と書いたが、これが正しければ1906~1907年頃ということになる。そうすると、富本が1911年に仕上げるまでに4~5年の間が空いてしまうのか…?

やはり富本には清水組の仕事(帝大出の技師の下働き)が性に合わなかったようだ。「せっかくロンドンで勉強してきたのにもったいない…」と、見かねた岡田が、未完の旧作を取り出して、「今度の展覧会用に仕上げて、出してみたらどうか」と持ちかけたのではないだろうか。(全くの推測だが)

※富本憲吉は工芸家。東京美術学校図案科で大澤三之助、岡田信一郎に学んだ。卒業が決まると私費でロンドンに留学(1908年10月~1910年6月)。ウイリアム・モリスの作品から多くを学んだ。帰国後、一時清水組に在籍。まもなく退社し、やがて陶芸家の道を歩んだ。「青鞜」同人の尾竹紅吉(一枝)と結婚(1914年)。後に第一号の人間国宝。
※東京勧業展覧会の賞金額については未確認。

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2011.12.08

OSN041高木博士邸

岡田の初期作品に高木豊三邸がある。
「建築工芸叢誌」20(1913年9月)の「高木博士邸の建築」で岡田自身が紹介しているもので、牛込区市谷砂土原町2丁目1の3に建てられた。施工は戸田組である。

高木豊三は法律家で、貴族院議員も務めた人物。もともと岡田家と同じ東五軒町に住んでおり、「博士の令息とは小供の時分からの友達」である。
岡田が「所要の敷地としては少しく小さ過ぎる」と書いているのを鵜呑みにしていたが、確認したところ、320坪あった(今の感覚から言えば十分広い)。

高木邸は道路側にハーフチンバーの木造2階建洋館、敷地奥の方に日本室(和館)を置いた。東西に細長い敷地で、日当たりがよく「陽気で愉快な室になつた」という。座敷の方には、結城素明デザインによる透かし欄間を入れることにしている(欄間や家具は制作中)。

ところで、戸田組の「創業追想」で紹介されている高木博士邸の記述を見ると、

高木氏(司法次官、法学博士)邸工事 明治三十九年下期 [1906年]
場所は牛込区薬王寺町、木造純日本式、四〇坪程
(…)設計監督には明治三十九年七月東京帝国大学建築学科を出たばかりの銀時計組の逸才、岡田信一郎先生が当たつている。
経験は浅いが大変出来る人であつた。
とあって、疑問が生じる。1906年に住宅を建てたばかりで、1913年にまた建てたのだろうか? 単に戸田組の竣工年が誤りなのか?

ここで気になるのは「薬王寺町」という地名である。岡田が1912年に薬王寺町に引っ越す理由がよくわからなかったのだが(前出)、あるいは高木邸と関係があるのだろうか…?

※交詢社の「日本紳士録」で見ると、高木豊三の住所ははじめ「東五軒町44」で、1909年~1911年頃の版では「麹町区内幸町1-3」になっている。(内幸町はビジネス街だから事務所の所在地かもしれない)
1917年の資料では「砂土原町2-1」となる。(砂土原町は、後に岡田が住む神楽町に近い)

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2011.12.07

OSN040東京銀行

同じく岡田が初期に関わった物件。
「東京銀行」は戦後の同名の銀行とは関係はない。日本橋の繊維業関係をメインとした銀行のようだ。「図面で見る都市建築の明治」には、「様式的混成は進み、華やかさを演出するための屋根窓のオキュラス(円窓)や屋根飾りが、頭の重い意匠となって重なり、植民地建築風」と評されている。
Tokyo
「街 明治大正昭和 2関東」のデータによれば、「明治40年9月着工、41年12月竣工、設計・施工清水組、煉瓦2階265坪、工費11万円」とある。
「清水建設百五十年」には、「東京銀行 東京・明治41年(1908)12月竣工・設計当店岡田信一郎」と記載されている。(画像も同書掲載)

1906年に大学を卒業した岡田は大学院に進み、その傍ら、警視庁及び清水組の嘱託になった。
清水組に在籍していた期間ははっきりしない。「清水建設二百年史」には1年ほどと書いてあったようだが、その根拠は不明である。(担当した作品が東京銀行ぐらいのようなので、そんなところかもしれないが…)

東京銀行は岡田のデビュー作と言えるだろうか。清水組を辞めた時期がはっきりしないので、どこまで施工に関与したか、という問題もある。また、清水組には技師長の岡本銺(そう)太郎や、先輩の田辺淳吉もおり、岡田が自由に設計できた訳ではないだろう。

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2011.12.06

OSN039警視庁

これも岡田が初期に関わった物件。
岡田は1906年(明治39年)に大学卒業後、警視庁嘱託になり、新庁舎(1910年竣工)の建設に携わった。

当時の警視庁は鍛冶橋内にあったが、1882年(明治15年)に建てられたもので老朽化していたこと、狭あいであったこと、また、建設が決まった中央停車場(東京駅)の敷地に当ることから、日比谷堀端に移転新築することになった。
帝国劇場(設計横河工務所)の隣接地で、帝劇の方は1907年着工・1911年竣工(同年3月1日開場式)だから、両者の工事は並行して進んだことになる。

庁舎の設計を担当したのは警視庁技師の福岡常治郎である。福岡は1896年帝国大学建築学科を卒業、1905年の職員録では警視庁警視総監官房第三課の技師となっている。移転計画や新庁舎建設の基本設計などは福岡がまとめていたことだろう。
着工を控えた1906年5月に、辰野金吾が工事顧問に就いた。(ちなみに東京駅の設計が決まるのは、この年の12月)
岡田が警視庁に勤めることになったのは「辰野博士の推輓に依つたのであらう」と、長野宇平治は書いている。

さて、警視庁庁舎の着工時期だが、「警視庁史 明治編」では「明治39年8月8日に着工」とある。岡田が嘱託になるのはこの直前の7月だから、基本設計は既に福岡が済ませていたはずである。
※警視庁着工の時期について、技師・福岡が新聞記者に語った談話に「新築事務に着手せしは去る四十年二月」云々ともあって、少々疑問も残るが、ひとまず「警視庁史」に従う。

後に岡田自身は次のように言っている。

警視庁のたてものは赤煉瓦の雑然とした纏りの無い、嫌な建築であつたが、私には想ひ出の深いものであつた。私が大学の建築科を出て、先づ第一に奉公したのは警視庁の営繕課であつて、其処の技師の下に嘱託として七八ヶ月働いた。(…)私は遺憾乍ら此の設計の充分纏らない中に警視庁を去つたけれど。其後此の建物の所々には私の描いたデテールがくつゝいて居た。下働をして一部をやつたのだから、無論処女作とは言へないけれど、兎に角、自分が学校を出て先づ第一に手伝つた建物だから、其良否に係らず懐かしい気がする。
細部では岡田がデザインに腕をふるう余地も少しあったようだが、むしろ本格的な庁舎建築の実務に関わり、学ぶところが多かったと思われる。地盤が悪く、思うように基礎工事が進まない難工事だったようである。
ところで同じ文中に次のようにあるのは気になる。
何分廿四五の新学士とて生意気な事もあつたのだらう。所謂「首」になつて、其際上野の山奥に遁げ込んだ。
警視庁をクビになって、美術学校に行った、というのだが、額面通り受け取ってよいのだろうか?

警視庁の玄関上部にある大きなアーチは特徴的だが、これが大阪市公会堂のデザインソースの一つという指摘がある。曽禰達蔵は「岡田君の設計に係る大阪中之島公会堂の正面中央の手法は略(ほぼ)(…)警視庁々舎のこれに類して居る」と語っている。
これは辰野金吾好みのデザインでもあったことだろう。

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2011.12.05

OSN038日本銀行函館支店

ついでなので、日銀函館支店についてもふれておく。

小樽支店の設計と並行して、函館支店の設計が進んでおり、こちらも岡田が担当していた。
しかし建設計画が変更になり、設計をし直すことになった。このため、岡田の担当した設計案は廃案になった。
(どこかで、煉瓦造から木造に変更になったと読んだ気もするが、資料が見つからず…)
以下は長野の一文。

岡田氏は日本銀行では小樽支店の設計が進んだ頃、函館支店の設計にも従事し、実施図までも可なり纏まつたが、銀行の都合で実施の域にまで進まなかつた、トレーシングするまでに進まなかつたから図面は残存して居らない。
改めて函館支店の設計を担当したのは後任の奥村精一郎である。木造で、1910年6月着工、1911年9月に竣工した。
また、福島支店も奥村が担当し、煉瓦造で、1911年8月着工、1912年11月に竣工した。両支店の設計は、辰野・長野・奥村の連名である。

小樽支店・福島支店の完成で全国の支店建設が一段落したため、日本銀行の設計組織は解散となり、1912年7月31日付、長野は解雇となった。
(駒木定正「明治期日本銀行の建築設計組織と小樽支店(明治45年)の設計者 : 辰野金吾、長野宇平治、岡田信一郎の関わり」2003年)

その後、奥村の設計した日銀函館支店は火災のため、焼失してしまった(1924年8月)。
(函館支店公式サイトにある写真

国会図書館にある岡田信一郎図面の中に、1枚だけ函館支店の照明の原寸図が残っていた(岡田が書いたものかどうかはわからない)。参考用に図面を持ち帰っただけなのか、函館支店の設計を手伝ったということなのか。

Ngfukusima
これは福島支店の立面図。奥村が仕上げた図面だろうか。福島支店も1978年に取り壊されて今はない。
(「建築雑誌」333号、日本建築学会データベースより)

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2011.12.04

OSN037日本銀行小樽支店

岡田が関与した建築で最北端にあるのは日銀小樽支店であろう。現在は金融資料館になっている。
公式サイト
建物自体については、駒木定正氏が「日本銀行小樽支店(明治45年)の設計者について―辰野金吾・長野宇平治・岡田信一郎・小林懋」 (2003)など一連の研究を発表していて、特に付け加えることはない。

駒木論文をはじめ諸文献を参照し、岡田信一郎との関わりをまとめておきたい。

○日本銀行小樽支店は1909年(明治42年)7月着工、1912年(明治45年)7月竣工。約3年の歳月をかけて建設された。
「建築雑誌」の紹介記事では設計は辰野金吾、長野宇平治、岡田の連名になっている。長野は日本銀行臨時建築部技師であり、辰野は顧問、岡田は嘱託、という関係である。
長野は後に、次のように書いている。

辰野博士は(略)工事顧問の名義で勤めて居られ1週2回位出勤して居られたが、実際には臨時建築部の設計監督の事務から人事上のことまで統率しておられた、明治42年7月起工、明治45年7月落成の日本銀行小樽支店の新築の設計の為めに岡田氏は日本銀行へ勤められることになつたのである

日本銀行小樽支店の建築は辰野金吾、長野宇平治、岡田信一郎3人の合同設計のことになつて居る、3人の中で辰野氏は始めの企画から施工に至るまで全体を統率せられ、余は基本設計をなし、岡田氏は此基本設計に依りて実施設計から施工図に至るまでを担当せられた。

○長野宇平治は地鎮祭(1909年8月)、上棟式(1910年11月)に出席したほか、年に3-4回、工事現場を見に来たという。
(小樽に常駐ではなく、東京で設計を行っていた訳である)

○岡田が日本銀行の嘱託を兼ねた期間は、小樽支店着工の前年1908年3月から、1911年12月までである(東京芸術大学百年史P535)。
岡田は1906年に大学を卒業し、当時は東京美術学校嘱託であった。

○先の引用で「基本設計」は長野ということだが、岡田も設計者に名を連ねていることから推測すると、細部の意匠などに岡田のデザインも相当入っているのではないか。
岡田にとっては(警視庁での経験に続いて)、辰野金吾の指導のもと、設計実務の腕を磨く場であった。

○(以前の「岡田と洋行」で少しふれたが)1909年8月には、大学を卒業したばかりの奥村精一郎が日本銀行の雇となり、同年12月に技師に昇任した。岡田は洋行が決まりながらも病気療養をすることになったので、代わって奥村が採用されたのだろう。

○岡田は1910年初めには病気から回復したようだが、小樽支店は既に着工しているし、奥村が後任になっていたので、仕事量はそれほど多くなかったかもしれない。
岡田が日本銀行の嘱託を解かれたのは1911年12月で、まだ小樽支店の建設工事は続いていたが、既に工事の目途も立っていたのだろう(翌年7月竣工)。また、(美術学校に加えて)早稲田大学でも教壇に立つようになり、忙しくなったことも一因だろう(1911年2月に講師、1912年1月、教授に就任した)。

岡田が工事中、あるいは竣工してから、実際に小樽支店を見たのだろうか、というのが謎である。(見ていないかも…)

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2011.12.03

OSN036木津屋

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盛岡市に木津屋という老舗の文具店がある。木津屋本店総務部(池野籐兵衛家住宅)は大火後の天保5年(1834年)に建てられた土蔵造の町屋。
県の有形文化財に指定されており、2002~2005年に4年間かけて修復工事が行われた。
公式サイト

Kizuya4
敷地内には煉瓦造の蔵などもあり、歴史の厚みを感じさせる。

Kizuya
その木津屋の洋風店舗を岡田が設計している。(大正12年頃?)

どうもそれらしい建物が残っていると人から聞いて、現地へ行ってみると…。

Kizuya2
おそらく道路拡幅のため、建物の前面を切り取ってしまった様子。
唯一の面影は白タイル張りの壁に残る楕円形の装飾。岡田が遺した図面の中に、この装飾の原寸図がある。

前に書いたように岡田の母が岩手出身で、木津屋と何かしら接点があったのかもしれない。
(写真は昨年7月撮影)

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2011.12.02

OSN035後藤新平像

最南端の岡田物件(玉置碑)を紹介したが、今回は北の方にある水沢公園(岩手)の後藤新平像台座について。(現地はまだ訪れていない)

後藤新平の銅像は何箇所かに建てられたが、水沢公園にはなぜか2つもある。
そのうちの1つが、ボーイスカウトの半ズボン姿の後藤である。銅像は戦後あらたに造られたものだが、台座部分は明治時代のものを再利用している。銘板には岡田信一郎の名前が記されているそうだ。
(ぶらり重兵衛さんのサイトに画像、説明がある)

建設の経緯などは、鶴見祐輔「後藤新平伝」や憲政資料室の後藤資料にもなかったと思う。
ついでに後藤新平邸について調べたいこともあるので、一度記念館を訪れてみなければ…。
後藤新平記念館

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2011.12.01

徴古館(佐賀)

Sagachoko 佐賀の鍋島閑叟公銅像のあった近くに、1927年に建てられた徴古館。
以前写真で見て、何となく岡田っぽい、と思い、訪ねてみたかった建物です。

設計者は徳永庸とのこと。あまり知られてない名前と思いますが、建築ファンなら、近年取壊しになった銀座東邦生命ビル(1930年)を知っている方も多いのでは。
早稲田建築科の1期生で、卒業後は辰野片岡事務所を経て、佐藤功一事務所へ。早稲田大学で教壇に立ちました。村野藤吾の進路の相談に乗ったりしたそうです。
Sagachoko2 正面中央の壁面を湾曲させるのはバロック的手法?
車寄せのトスカナ風円柱は、岡田の鍋島閑叟公銅像へのリスペクトかも、と勝手に想像してますが…。

日曜休館で、残念ながら外観のみでした。

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