« 旧奈良駅舎 | トップページ | OSN022桂離宮 »

2011.11.14

OSN021正倉院

正倉院といえば…
毎年秋、正倉院宝物の曝涼に合わせて奈良国立博物館で正倉院展が開かれ、多くの人が訪れる。
だが戦前には一般人に拝観の途は閉ざされており、曝涼の際に正倉院宝物を拝観できるのは高等官や有爵者らに限られていた。
岡田は何度か正倉院を拝観しているが、初めて拝観したのはいつだろうか。

まずこれまでも度々引いた「弟を送つて」に、正倉院を拝観した記述がある。
関東大震災の翌年(1924年)11月、岡田夫妻と弟の捷五郎、K氏の一行は奈良を訪れていた(捷五郎はこの後、神戸から乗船し、海外視察に出発するところである)。

天候が不順なため、正倉院が開扉されるか危ぶまれ、一行はまず春日社や法華堂を回った。そのうち天気も持ち直し、

急いで正倉院へ行くと幸に開扉されてもう四五の拝観者も参入して居る。私達もそれに続いた。(…)
倉は窓がなくて僅かに入口から光射が射入するばかりであるので、到底隅々までは明りは透徹しない。拝観者は各々用意した懐中電灯の薄明りで、精巧な宝物に眺め入るのである。旧知奈良美術院の新納氏、博物館の関氏等が居られて詳細な説明を聞く事が出来たのは幸福であつた。

岡田は正倉院を「先年嘗て拝観したことがある」と書いているので、このとき(1924年)が二度目の訪問だったのだろうか。

さて、1910年(明治43年)の「正倉院御物拝観規程」によれば、拝観する資格を持つのは、「一、高等官及高等官の待遇を受くる者、二、有爵者(=華族)、三、従六位勲六等以上の者、四、学位を有する者(=博士)、五、帝室技芸員、古社寺保存会委員及美術審査委員、六、前五号に掲けたる者の配偶者」である。
岡田が1923年9月に東京美術学校教授(高等官三等)になるまでは官位もなく、いずれの条件にも該当しないので、このままでは拝観することができない(はず)。

茶人として知られる高橋義雄(箒庵)も拝観の資格がなかった。これを残念に思った高橋は、親交のあった元勲、山県有朋に、無位無官の者が正倉院、京都御所、離宮などを拝観できないのは不当であると訴えた。
これがきっかけとなって、1919年、帝室博物館総長が「学術技芸に関し相当の経歴ありと認め」た場合は、特別に許可するように規程を改正し、高橋も同年秋に拝観することができたのであった。(ちなみに当時の帝室博物館総長は森鴎外)

もっとも、前述の条件にも抜け道はあり、宮内省や帝室博物館の嘱託などの名義を得て拝観する、という場合もあったようである。
岡田の場合はどうだったのだろうか。規程が改正されてから(1919年~1922年の間に)初めて拝観したのか。あるいはそれ以前に、東京美術学校人脈を生かして拝観することができたのか。

なお、岡田は翌年(1925年)にも正倉院を拝観した。
黒田鵬心の日記抄によると、デルスニスと同行し、正倉院で正木直彦(美術学校長)、岡田夫妻、和辻(哲郎か?)らと会った。
黒田が初めて拝観したのは5年前(1920年なら、高橋が拝観した翌年)で、今回は2回目だった。

【参考】内藤一成「もうひとつの山県人脈」(「山県有朋と近代日本」所収)

|

« 旧奈良駅舎 | トップページ | OSN022桂離宮 »

コメント

近代デジタルライブラリーにある「拝観録」に正倉院の拝観規程が詳しく書いてありました。
それによると、大正元年に「東京美術学校各科ノ所属講師及助教授」も許可されていたようで、本文後半は修正が必要です。

投稿: 岡田ファン | 2012.02.22 22:21

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 旧奈良駅舎 | トップページ | OSN022桂離宮 »