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2011.11.24

OSN028関西への旅(エピソード3)

「大和路と武蔵野の秋」(1926年1月)
○国木田独歩の「武蔵野」の一節を引用している。

○「秋の日、和田堀之内に住む弟達の家庭を訪ねるとき、其処に独歩氏が描いた武蔵野の木立の秋が随所に発見される。五六年前まで、弟の家が建てられる時分には、まだ、木立から木立を重ねて、丘から丘へ通して、武蔵野の大観を望(?)むことが出来た。併し今は此辺も、和洋とり/\の住宅が所狭く建てられて、僅に武蔵野の片鱗を窺ふだけだ(…)」
(※杉並区和泉町にあった岡田復三郎の家で、建てられたのは大正10年頃か。)

○この秋は「老母家人」とともに赤坂離宮の御苑を拝観した。

○陸軍練兵場の戸山原には(子どもの頃)よく遊びに来た。

○「老母家人」とともに山王台の徳富蘇峰邸を訪れた。その帰りに、木原山(現大田区山王)の八百善・栗山氏の茶室を訪れた。

○太子堂の平福百穂の画室を訪れた。
(※平福邸の設計をしたのはこの後か)

「推古の春」(1928年4月)
○昨年の師走の始め、聖徳太子奉賛会評議員会が開かれた。
(※岡田は聖徳太子奉賛会の評議員だったのか?確か以前に調べたのだが、役員名簿には載っていなかったと思う)

○岡田の鎌倉別荘は、「其小庵の建築も、名古屋風に全部粂造で塗って、黝暗な古びたものにしてある。」
(※「粂造」も「黝暗」も意味がよくわからず…。この別荘について、別に書く予定。)

○「我等の祖先達が絶えず苦心した朝鮮の問題が、明治時代に至つて安定した事を心から喜ぶと同時に、支那の問題に至つては安定の曙光をも見ないばかりか、久しきに亘る紛糾が益々複雑するのを遺憾とする」
(※岡田は蘇峰に心酔していただけあって、そのアジア観を今日から見れば保守的と言われても仕方ない。)

○明治建築への評価。
「文化の実証として建築の価値を重視するとき、私は明治時代の建築がもつと尊重されねばならぬ事を痛感する。支那文化に対する推古時代と、泰西文化に対する明治時代とは全く対比的に見ることが出来やう。後の数百年を経た人達が、遥かに明治の文化を想ふ時、私達が、法隆寺、法起寺、の建築を見得るやうに、その実証たる明治の建築を、今の儘に残して置きたいと欲するのである。」
(関東大震災後)「帝国大学で法文科の建築が爆破される時も、勇ましい光景を悲しく傍観した。其時私は左程にも傷つかなかつたと見た工科大学本館の建物の、保存さる可き事を欲したが、夫れも近頃惜し気も無く破却されたと聞くのは残念である。」

「推古の春」(1928年7月)
○「私が抑四天王寺の名を初めて見たのはまだ少年時代太平記を読んだ時である。小供の時から弱虫だつた私は、凧あげも、軍ごつこも得意ではなかつたが、稗史や小説はかなり読んだ」

この後に「当人王九十五代天下一乱而主不安…」と引用していることも考えると、「太平記」も原文で読んだと思われる(当時、子ども向けのダイジェスト版などはあったのかどうか…?)。
岡田は自伝や回想をまとめることはなかったので、こうした断片的な文章から想像するしかない。

(タイトルとは異なり、関西とは関係のないエピソードが多かった…)

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コメント

osn028 について拝見し、読みにくく困っております。老母家人とともに木原山の栗山宅を訪問したのが西暦で何年の事なのか、これですとわかる様でわかりません。
「大和路と武蔵野の秋」(1926年1月)の中にそういうことが書かれているという意味なのでしょうか。この文は国会図書館などで拝見可能ですか。栗山の孫です。

投稿: 岡田さんへの質問者 | 2014.01.22 20:10

コメントありがとうございます。読みにくくて、大変失礼しました(>_<)

「美の国」2巻1号(1926.1)という雑誌に岡田信一郎の文章が載っており、その中で八百善・栗山氏の茶室を訪れたことを書いています。

「美の国」2-1は国会図書館にないようで、芸大図書館かどこかで見たと思います。
該当箇所を引用しておきます。

(大正14年秋の某日、老母家人と、徳富蘇峰の家を訪れた後で…)

「蘇峰先生の寓居からの帰路、山を越えて木原山に八百善栗山氏の閑居を訪ねた。其処に新造された茶室を観るためであつた。茶会へ招待を受けたのを、事故あつて不参したので、今日を利用したのである。一畳大目中板の茶席は、或は法隆寺、新薬師寺、鳳凰堂、目黒不動等の由緒ある古木を使用した苦心の作で、云はゞ古建築の落葉を集めた、秋の錦である。然し私は其処の広間からの、秋山の景観に一層強く打たれた。(略)茶席の庭は数寄者らしく野趣豊かに造られて遠い松山の下草に連り、此処にも武蔵野の秋は戦(そよ?)いだ。」

老母は岡田の母親で、家人というのは奥さん(萬龍)のことだと思います。

投稿: 岡田ファン | 2014.01.24 23:09

(追記)
栗山氏の茶室「古柱庵」は石黒忠悳が命名したとのこと。

石黒さんは岡田信一郎の名付け親でもありますので、これもちょっとした縁でしょうか。

投稿: 岡田ファン | 2014.01.25 23:16

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