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2011.11.23

OSN027関西への旅(エピソード2)

エピソードの続き

「南都ところどころ」
○吉野には大学の建築科学生として行ったきりである。関東大震災の後、吉野にいる香取秀真から便りが来た。(今回は吉野に行けなかった)

○新薬師寺での感想。
「此の建築を見るときに、いつも私は希臘の建築を連想する。此の典雅整斉の美、優麗な風姿、且は強健な構架の感は、決して彼の亜典アクロポリスの上に建つものに比して譲らない。権衡や、形態の美は反つて優れても感ぜられる。」(法隆寺は全体を見ると、アクロポリスのような典麗な感じはない)
「唐招提寺の金堂は其の吹抜きの前廊が、特に希臘の連柱式祠堂に似て、希臘的であるとも言はれる。誠に其の風姿も美しい。此等の建築の洗練された形態の美しさと、簡勁な構架の表現とを見るときに、いつも私は私達の民族の芸術的な特質を希臘人の特質に比べて考へる。」
「今の建築家は屡々構造の真実とか合理とかを口にしながら、苟合と妥協の範囲を出てない事が多い。今此天平の些細な堂宇に対して、構架の真実と、形態の美と二つながらに教へらるゝ処が多い。」

○東大寺大仏殿前の灯籠を見て。
「私は先年嘗て此の灯籠の音声菩薩浮彫の扉に示唆を借りて、或る納骨堂の青銅の扉を造つた事がある。」
納骨堂の建設には、渡辺香涯、香取秀真、新納忠之助、武石弘三郎、小川三知が協力した。「私の意匠設計は拙くとも、かゝる大正現代の名匠達の苦心協力になつた此納骨堂は、大正の工芸的作品の一異彩と信じてゐる。」
(※この納骨堂については、機会があれば別に書きたい)

○大仏殿の修理(明治修理)について。
「高山樗牛を始め美学者や、文芸に携わる諸氏は、露仏説で、修理を要なしとした。妻木博士や伊東博士を始め建築家達は世界唯一の此の木造の大建築の壊滅を惜んで修理を主張した。」
この頃の岡田はまだ建築を志していなかったが、当時、論文を読んだ覚えがある。
(※大仏殿を壊してしまえというのも乱暴な感じがするが、論争があったのは、1898年[明治31年]に大仏殿が特別保護建造物に指定される前のことだろうか?)

○観阿居士の墓について。
岡田は新納忠之助からの依頼で、観阿居士の墓を模した墓を設計した。建設には香取が協力した。
(※この墓について、思い当たるところがあるので、別に書きたい)

○唐招提寺での感想。
「此建築に特異な、前列の離れた連柱が、希臘祠堂の柱のやうに浮き出して後に深い影を宿して、一層立体的にしつかりと見える。実際に陰影の問題は、建築美の上でいつも重大な要素である。近代のコンクリートの建築では、多くの建物は、平面で取り囲んだ四角な固まりに過ぎない。(…)建築には色々な面の要素が移入されて、もつと彫刻的な、即芸術的に立体的である外観を持つ事が必要である。」

「飛鳥と大原」
○修学院離宮での感想。
「私が学校を卒て間もない時分、趣味ある建築家で、特に日本風の住居建築には、一隻眼を有たれた先輩某氏が、訓へられた言葉を今も記憶する。「面白い意匠がしてあると、気がつくやうな座敷は、見飽きがする。何処に如何なる特徴があるとも、遽(にわ)かに気付かぬやうな座敷で、居心地よきものを上々とする」と言はれた。」

○その他、三輪山を見て「妹背山」を想像し、当麻寺で中将姫の雪責を思うなど、(当時は常識だったと思うが)浄瑠璃に親しんでいたことがうかがえる。

(続く)

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