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2011.11.19

OSN025関西への旅 (続)

中央公論掲載の「弟を送つて」は読者から好評だったようだ。
吉村順三が東京美術学校に入るのも、「弟を送つて」を読んで興味を持ち、岡田の許を訪れたのがきっかけであった。
「漱石先生の文章にも匹敵すべきものと思ふ」(森井健介の追悼文)という感想もあったほどで、徳富蘇峰からも誉められ、有頂天になる岡田であった。

岡田は翌1925年にも正倉院拝観のため奈良を訪れた。
「美の国」掲載の「大和路と武蔵野の秋」には「正倉院の曝涼を拝観し、猶二三日大和路をうろついた」とあり、日付は明記されていないが、黒田鵬心の日記抄(前出)によれば、11月14日のことである。黒田は正倉院で「正木(直彦)氏、岡部氏(?)、岡田信一郎氏夫妻、和辻(哲郎か)君等数人の友人」に会った。

岡田は正倉院のほかに、「宇陀の地方、初瀬から室生にかけて、又談山神社へも詣でた。而して法隆寺に賽した序に龍田へも行つた」。
この文では紅葉など自然美を中心に書いており、建築の記述は少ない。

1926-27年については未見。

1928年(昭和3年)には法隆寺での式典に参加するため、関西を訪れた。これも箇条書きしておく。

「春画の夢」(「中央公論」1928年7月掲載)
(後の方に「僅か四日の泊り客」とあるので、4/8に奈良到着か)
4/9
奈良博物館へ行く。夜、ホテルで小泉策太郎に会う。
4/10
法隆寺防火水道落慶式に出席する予定を変更し、電車で大阪へ行き、大阪朝日社の天平文化綜合展覧会を見る。同社のOが案内してくれる。
食事の後、四天王寺へ(これが初めて?)。
4/11
大阪毎日社長本山の自動車に同乗し、法隆寺へ。聖徳太子奉賛会総裁の久邇宮の一列に同席。西園院の新しい茶室を見る。
午前中は聖霊院で聖徳太子千三百七年回忌、正木(直彦)美術学校長が十七条憲法を拝読。
境内は賑やかで、数奇者の茶会が催されているのを見る。
午後は推古天皇千三百年遠忌の法要。式典の最後には舞楽もあり、岡田は1300年前の法隆寺落慶法要の様子を夢想する。
正木校長の案内で春日社に詣でる。夜、奈良ホテルでの久邇宮の晩餐に同席。
4/12
再び奈良博物館へ行き、天平文化記念品特別展覧会を見る。午後、正木校長、細川(護立)侯爵とともに守屋孝蔵邸を訪れ、収集の陶器、古鏡を見る。
藤井有隣館へ寄る。夜、都踊りを見て、汽車に乗る。
(東京に戻ってからも、東京博物館の御物上代染織特別展覧会、華族会館での唐三彩陶器展を見て、天平文化、盛唐文化を偲んだ)

「中央公論」の記事には同行者が明記されていないが、正木直彦の「十三松堂日記」によると夫妻で行動していることがわかる。また、奈良ホテルでの久邇宮の賜餐に与ったのは「奈良大阪神戸の人々より百人にも上りたり」という。
岡田は記していないが、藤井有隣館の後、岡田と正木は清浦(奎吾)子爵の別荘、喜寿荘に行っている。京都での美術館建設を岡田に依嘱したいということであった。
(岡田の妻が同行したかどうかはよくわからない。岡田は1930年に行われた大礼記念京都美術館の設計コンペの審査員を務めた。1等入選したのは、岡田の教え子、前田健二郎である)

ついでに…。前回、「京都から東京まで何時間かかったのか」と書いた点が解決。
正木の日記によれば、1928年4月12日(木)の夜9時半、京都駅で汽車に乗り、翌日5時半に沼津駅、9時に東京駅に着いた。
「のぞみ」なら2時間20分ほどであるが、当時は11時間半かかった訳である。

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