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2011.11.07

OSN018岡田の母

岡田の母、いちは盛岡の出身である。父親は、田村藩の御典医で一関に藩の医学校を開設した笠原耨庵、兄は(前に少しふれた)軍医の笠原親寧である。
石黒忠悳の家に預けられて育ったという話もあり、石黒か笠原の紹介で岡田謙吉と結婚したのであろう(1877年頃?)。

謙吉、いち夫妻には、阿蘇男(1881年生)、信一郎(1883年生)、復三郎(1886年生)、孝吉(1888年生)、あや子、捷五郎(1894年生)の子どもたちがいた。

1895年に謙吉が亡くなったときは、中学生の阿蘇男から生後間もない捷五郎まで6人の子どもがおり、いちも途方に暮れたことだろう。資産(東五軒町の家)と扶助料(遺族年金)があったから貧困という訳ではなかったかもしれないが、働いて家計を支え、それぞれの子に教育を受けさせるのは大変なことだったと思う。

岡田は母親について書いている。(中央公論掲載「弟を送つて」)

父が死んだのは母が三十七、私は十二で中学一年の時であつた。父はまだ幼い五人の男子と、一人の女子と、及び僅少の財産とを遺した。母はこの苦境に立つて雄々しく奮闘した。(…)
意志弱行の私などが、今どうやら世の中に立つて行く事の出来るのは、一に母の強い意志に感奮した結果に外ならない。(…)
母はか弱い痩せた小柄の女であつたが、心は常に緊張してゐた。私達がかけた苦労の為に年よりは早く老けて、六十八の今七十五以上にも見られる。心のしつかりした母も今は老いて穏やかな老媼に過ぎない。
岡田は旅行にも母親同伴で行くことが多く、親孝行なことで知られていた。
1932年に岡田が亡くなった後、未亡人となった嫁(岡田静)と大和郷(六義園の近く)に建てた家で暮らした。岡田静は姑によく仕え、1943年に亡くなるまで世話をした。

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コメント

笠原一族につきまして、更なる詳細ご教示賜りたく、よろしくお願い申し上げます。

投稿: さぬき | 2012.07.14 09:55

もしかして関係者の方でしょうか。
岩手県南史談会、研究紀要第26集(平成9年7月)に赤塚愛人氏の「藩政時代の笠原家系図について」という論考が載ってます。
(国会図書館か、岩手県立図書館あたりにあるはず)
それ以上のことはわかりませんです。

投稿: 岡田ファン | 2012.07.15 10:05

岡田ファン様

さっそくのご回答、有難うございました。
幕末から明治にかけての医史に興味があり、調査しております。笠原で検索しておりましたら、予想外にも貴ブログがヒット致しました。赤塚愛人氏は一関市関係の資料でお名前を拝見した事があります。「明治過去張」も、再度見直してみようと思っております。
「石黒」家はともかくとして、「岡田」、「笠原」の著名家が、越後にも見受けられるのは、偶然でしょうか。

まずは、お礼旁々。

投稿: さぬき | 2012.07.17 21:13

明治過去帳は侮れませんね。

笠原家側のことは、赤塚氏の論考でわかってきたのですが、岡田(川崎)謙吉さんがどういう風に医学を学んだのか、よくわかりませんです。

投稿: 岡田ファン | 2012.07.17 23:51

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