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2011年11月の30件の記事

2011.11.30

OSN034玉置半右衛門記念碑

Tamaki
岡田作品で最南端、沖縄の南大東島にある物件。
(もし登録文化財にすれば、日本最南端になるのかも…?)

玉置半右衛門(1910年死去)は、無人島だったこの島を開拓した人物で、1923年、玉置の事務所跡に碑が建てられた。(碑には「玉置半右衛門君紀念碑」とあり)
国会図書館に残されている設計図面を見ると、人物のレリーフを付ける計画になっているが、実際にはレリーフは無く、実施段階で変更されたようだ。建設に岡田建築事務所が関わっていることは確実であるが、設計変更の経緯など、今一つ不明な点もある。

未だ現地を訪れていないが、北大東島の方にも同名の碑(戦後物件)があるので、もし訪れるときには注意したい。
(写真は南大東村提供)

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2011.11.29

OSN033鍋島閑叟公銅像

Usidu
岡田作品の中に「鍋島閑叟公銅像台座」がある(1913年)。佐賀藩主、鍋島直正の像である。
かつての銅像の写真は佐賀県のサイト(こちら)を参照。

もともと、佐賀城近くの松原公園西側付近にあったものだが、台座部分のみが、小城市役所牛津庁舎(旧牛津町役場)のところに移設されている。トスカナ風の付け柱があり、古典主義系の意匠である。

なお、かつて鍋島公像の背後には古川松根像が建っており、これも岡田が台座を設計した。この銅像のことが不明確であったのが、今回判明した。

古川は直正の側近で、直正の死後に殉死した人物である。銅像は前かがみの姿勢で、いかにも苦しそうだというので同情の声が起こり、数年後に造り直された。以前の銅像は、大川内山村(伊万里)に移された、ということである。

鍋島公の像も、古川の像も(新旧ともに)、戦時中の供出でなくなってしまった。
鍋島公の台座は、1975年に牛津に移されたが、古川像の台座はどうなったのだろうか?

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2011.11.28

OSN032岡田と大阪

岡田は大阪市中央公会堂(1918年竣工、重要文化財)の原案を設計している。設計コンペ(1912年実施)の1等当選作で、これを基に辰野片岡事務所が実際の設計にあたった。

そこで、岡田と大阪の関わりが気になるが、1916年の新聞記事では次のように書いている。

僕未だ大阪市を熟知しない。僅に前後二回瞥見したに過ぎない。而して其間 前に狭隘なりし街路の後に大道に変ぜられたのを見た(…)

これによれば、1916年の時点で大阪に行ったのは2回と書いている。一度は天王寺公園で行われた国民美術協会の展覧会(1913年)のはず。
もう一度は、大学生時代(1903-1906年)と想像される。大学生時代と国民美術協会展の間に、大阪市電の敷設に合わせた事業(1908年に第2期開業)や、大阪駅移転に伴う梅田新道の建設(大阪駅~淀屋橋、1908年)が進んでおり、「狭隘なりし街路」が「大道に」なったという点にも符号するように思う。
大学生時代には、中之島では日本銀行大阪支店(辰野金吾・葛西万司・長野宇平治、1903年竣工)、大阪府立中之島図書館(野口孫市・日高胖、1904年竣工)と相次いで大規模な西洋建築が建設されており、もし大阪に寄っていれば、これらの建物を見たことだろう。
なお、大阪市中央公会堂に関しては、実施設計には関わっていない。地鎮祭などの儀式にも特に出席しなかったようだ。(開館式はどうか…?)

大阪高島屋(1921年)の設計を引き受けてからは、度々大阪に行くようになった。
大阪では、その他、国民会館などいくつか作品がある。

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2011.11.27

OSN031岡田の旅

岡田は病気がちで欧米に行く機会を失ったが、国内ではどこまで出かけたことがあるのだろうか?

○自然…「建築雑誌」(1932年5月号)に、岡田が1906年(明治39年)に描いた浅間山のスケッチが掲載されている。同年7月に大学を卒業したあと、旅をしたのだろう。
また、「書生時代には多少山水にも親しみ」、山では「男体山、白根山、御嶽、大峰」などに登ったと書いている。(「書生時代」とは大学生の時か?)

○北海道…岡田自身は北海道について特に書いていないようだ。日本銀行小樽支店・函館支店の設計に関与したが、設計は東京にいてもできることである。実際に現地を訪れたかどうかは不明。

○東北…盛岡(岩手)では木津屋の店舗(看板建築風のもの)等を設計した。母方(笠原家)が田村家一関藩の御典医で、岩手には縁がある。おそらく訪れたことはあるのでは(推測)。岩手では、水沢の後藤新平像台座も設計した。
他には山形の國井家観音堂、会津(福島)の橋本銀行を設計しているが、岡田が現地を訪れたかどうかは不明。

○関東…東京・神奈川は省略。
栃木では、大学時代に日光で実測調査を行った。また、(卒業後)日光の大江新太郎を訪ねた。茨城では、水戸の武徳殿を設計した。埼玉では、浦和の埼玉会館を設計、度々浦和に通った。

○甲信越…小千谷(新潟)では、小千谷銀行、小千谷小学校などの設計をした。工事中に訪れたり、学校の式典に参加した記録が残っている。
また、山梨では身延の波木井像、山崎校長像台座を設計。また、岡田が関与したかもしれない物件(石碑)がある。

○東海…熱海に自分の別荘を建てた。他にもいくつか別荘を設計した。

○北陸…不明。作品もなさそう。

○大阪…別項目で書く。

○関西…大学生時代に竹生島(滋賀)で実測調査を行ったという。京都、奈良付近も大学時代にかなり見て回ったようだ。(関西への旅を参照)
城崎温泉(兵庫)の一の湯・曼陀羅湯を設計しているが、岡田自身が現地を訪れたかどうかは不明。
他に、琵琶湖ホテル、太陽生命京都支店が岡田の没後に完成した。

○中国…広島に浅野図書館を建てた。(厳島神社を訪れた?)

○四国…不明。作品もなさそう。

○九州…佐賀の松原神社前に建てられた鍋島公銅像(1914年)の台座の設計を岡田が担当しており、除幕式にも参列した。
また、福岡に九州日報社(1932年)、二日市温泉(福岡)の大丸別荘を設計しているが(昭和初期)、岡田が現地まで行ったかどうか不明。

○沖縄…南大東島に建てた碑の設計に関わっているが、現地を訪れてはいないだろう。

その他、中国、朝鮮半島などについても、岡田自身は特に書き記していないようだ。1924年に横浜~神戸間を箱根丸に乗ったのが、初めての船旅だったようなので(前出、関西への旅)、行っていないのではないか。

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2011.11.26

OSN030岡田と洋行(続)

岡田は「弟を送つて」(1925年1月号掲載)の中で、フランスの建築史を研究していて、ロマネスクやゴシックの大聖堂を実際に見てみたくなったと書いているが、その一方、自分が外国に行くことはほとんどあきらめてしまったようである。

岡田は留学の機会を教え子の水谷武彦(1921年東京美術学校卒業、その後同校教授)に譲ったという話がある。水谷が文部省留学生として留学するのは、1926年(大正15年)4月~1929年12月である。水谷はドイツでバウハウスに入学し、モダニズムの最先端の動向にふれた。 

その時分に岡田信一郎先生が海外へ出る命令をもらったので、自分が身体が弱くて出られないから、当時講師をしていた水谷氏に「きみ、行ってこい」と言って水谷氏が代りに行ったのです。(山脇巌の話:「近代建築の目撃者」P289)
やはり岡田の教え子であり、水谷に続いてバウハウスで学んだ山脇の言うことだから、信用しておこう(山脇は1930~1933年に私費でドイツ留学)。

また、今井兼次が留学する際には、スエーデンでエストベリ(ストックホルム市庁舎の設計者)に会えるよう、岡田が手配してくれたという話もある。

まっ先にエストベリ先生を日本公使の永井松三さんから紹介していただいたのです。永井さんは私の師、岡田信一郎先生と中学時代の親しい友人とのことで、先生からのお世話の賜でした。(「近代建築の目撃者」P90)
永井松三は岡田より5学年上である。スエーデン公使を務めたのは1925~1928年。荷風のいとこだという。

岡田については、外国の街のどこにどんな建物があるかよく知っていた、という話もよく紹介される。

外国には一度も行ってないんです。身体が弱かったせいもありますけれども、こっちが逆に質問するほどくわしいんですよ。(…)とにかくどこにどんな家があるとか、行かないくせによく知っているんです。(岡田捷五郎の話)
なお、岡田は、「(留学の)二三の機会は色々な事情でいつも逸さねばならなかつた」とも書いており、他にも何度か機会はあったようだ。

(宿題)水谷が助教授になったのはいつか。

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2011.11.25

OSN029岡田と洋行

「弟を送つて」に、日英博覧会の際の洋行がフイになった話が出てきた。(こちらを参照)

日英博覧会は1910年(明治43)5月から10月、ロンドンで開催された。

1909年日本政府と英国の博覧会会社との間で契約が成立し、日本側事務局が農商務省内に置かれた。
岡田は同年5月29日付けで「建築物内装飾及陳列箱陳列台に関する計画委員」を嘱託された。恩師の塚本靖が計画委員長、また、正木直彦が鑑査員などを務めており、その推薦だった。

主要な展示施設は、現地に既設の鉄骨造の展示館であり、計画委員の役割は装飾、陳列の計画づくりだった。日本国内で準備をした後、ロンドンへも出張するはずだった。

岡田が病気のため静養を要する状況になったのは同年8月頃だろうか。(当時、岡田は日本銀行小樽支店、函館支店の設計に当っていたが、8月に奥村精一郎が後任に就いた)

岡田は9月22日付けで委員を免ぜられ、同日付で前田松韻(東京高等工業学校教授)が任じられた。前田は1904年東大卒業で、岡田の2学年上であった。
前田は12月にロンドンへ渡り、博覧会の仕事を行った後、引続き、文部省留学生となり、1913年に帰国した。
また、これより先の6月には、岡田の同期生、本野精吾(京都高等工芸学校教授)も文部省留学生としてドイツに渡った。同世代の前田や本野が洋行してゆくのを横目に見て、岡田の心中はいかばかりか。

洋行が決まりながら病気のために断念せざるをえなくなった、といえば高山樗牛を連想する。
(岡田ファンとしては)もし洋行していれば色々面白いエピソードが生まれただろうし、その後の創作活動もかなり違ったものになったのでは、とあれこれ想像してしまう。

日英博と言えば、当時出展された芝の徳川家霊廟(台徳院)の模型が、今もロンドンに残っているという新聞記事を何年か前に読んだ。博覧会のため、芝の徳川家霊廟を調査したのは、美術学校の高村光雲と古宇田実である。(岡田が関わっているかも、と考えたのだが、違うようだ)

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2011.11.24

OSN028関西への旅(エピソード3)

「大和路と武蔵野の秋」(1926年1月)
○国木田独歩の「武蔵野」の一節を引用している。

○「秋の日、和田堀之内に住む弟達の家庭を訪ねるとき、其処に独歩氏が描いた武蔵野の木立の秋が随所に発見される。五六年前まで、弟の家が建てられる時分には、まだ、木立から木立を重ねて、丘から丘へ通して、武蔵野の大観を望(?)むことが出来た。併し今は此辺も、和洋とり/\の住宅が所狭く建てられて、僅に武蔵野の片鱗を窺ふだけだ(…)」
(※杉並区和泉町にあった岡田復三郎の家で、建てられたのは大正10年頃か。)

○この秋は「老母家人」とともに赤坂離宮の御苑を拝観した。

○陸軍練兵場の戸山原には(子どもの頃)よく遊びに来た。

○「老母家人」とともに山王台の徳富蘇峰邸を訪れた。その帰りに、木原山(現大田区山王)の八百善・栗山氏の茶室を訪れた。

○太子堂の平福百穂の画室を訪れた。
(※平福邸の設計をしたのはこの後か)

「推古の春」(1928年4月)
○昨年の師走の始め、聖徳太子奉賛会評議員会が開かれた。
(※岡田は聖徳太子奉賛会の評議員だったのか?確か以前に調べたのだが、役員名簿には載っていなかったと思う)

○岡田の鎌倉別荘は、「其小庵の建築も、名古屋風に全部粂造で塗って、黝暗な古びたものにしてある。」
(※「粂造」も「黝暗」も意味がよくわからず…。この別荘について、別に書く予定。)

○「我等の祖先達が絶えず苦心した朝鮮の問題が、明治時代に至つて安定した事を心から喜ぶと同時に、支那の問題に至つては安定の曙光をも見ないばかりか、久しきに亘る紛糾が益々複雑するのを遺憾とする」
(※岡田は蘇峰に心酔していただけあって、そのアジア観を今日から見れば保守的と言われても仕方ない。)

○明治建築への評価。
「文化の実証として建築の価値を重視するとき、私は明治時代の建築がもつと尊重されねばならぬ事を痛感する。支那文化に対する推古時代と、泰西文化に対する明治時代とは全く対比的に見ることが出来やう。後の数百年を経た人達が、遥かに明治の文化を想ふ時、私達が、法隆寺、法起寺、の建築を見得るやうに、その実証たる明治の建築を、今の儘に残して置きたいと欲するのである。」
(関東大震災後)「帝国大学で法文科の建築が爆破される時も、勇ましい光景を悲しく傍観した。其時私は左程にも傷つかなかつたと見た工科大学本館の建物の、保存さる可き事を欲したが、夫れも近頃惜し気も無く破却されたと聞くのは残念である。」

「推古の春」(1928年7月)
○「私が抑四天王寺の名を初めて見たのはまだ少年時代太平記を読んだ時である。小供の時から弱虫だつた私は、凧あげも、軍ごつこも得意ではなかつたが、稗史や小説はかなり読んだ」

この後に「当人王九十五代天下一乱而主不安…」と引用していることも考えると、「太平記」も原文で読んだと思われる(当時、子ども向けのダイジェスト版などはあったのかどうか…?)。
岡田は自伝や回想をまとめることはなかったので、こうした断片的な文章から想像するしかない。

(タイトルとは異なり、関西とは関係のないエピソードが多かった…)

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2011.11.23

OSN027関西への旅(エピソード2)

エピソードの続き

「南都ところどころ」
○吉野には大学の建築科学生として行ったきりである。関東大震災の後、吉野にいる香取秀真から便りが来た。(今回は吉野に行けなかった)

○新薬師寺での感想。
「此の建築を見るときに、いつも私は希臘の建築を連想する。此の典雅整斉の美、優麗な風姿、且は強健な構架の感は、決して彼の亜典アクロポリスの上に建つものに比して譲らない。権衡や、形態の美は反つて優れても感ぜられる。」(法隆寺は全体を見ると、アクロポリスのような典麗な感じはない)
「唐招提寺の金堂は其の吹抜きの前廊が、特に希臘の連柱式祠堂に似て、希臘的であるとも言はれる。誠に其の風姿も美しい。此等の建築の洗練された形態の美しさと、簡勁な構架の表現とを見るときに、いつも私は私達の民族の芸術的な特質を希臘人の特質に比べて考へる。」
「今の建築家は屡々構造の真実とか合理とかを口にしながら、苟合と妥協の範囲を出てない事が多い。今此天平の些細な堂宇に対して、構架の真実と、形態の美と二つながらに教へらるゝ処が多い。」

○東大寺大仏殿前の灯籠を見て。
「私は先年嘗て此の灯籠の音声菩薩浮彫の扉に示唆を借りて、或る納骨堂の青銅の扉を造つた事がある。」
納骨堂の建設には、渡辺香涯、香取秀真、新納忠之助、武石弘三郎、小川三知が協力した。「私の意匠設計は拙くとも、かゝる大正現代の名匠達の苦心協力になつた此納骨堂は、大正の工芸的作品の一異彩と信じてゐる。」
(※この納骨堂については、機会があれば別に書きたい)

○大仏殿の修理(明治修理)について。
「高山樗牛を始め美学者や、文芸に携わる諸氏は、露仏説で、修理を要なしとした。妻木博士や伊東博士を始め建築家達は世界唯一の此の木造の大建築の壊滅を惜んで修理を主張した。」
この頃の岡田はまだ建築を志していなかったが、当時、論文を読んだ覚えがある。
(※大仏殿を壊してしまえというのも乱暴な感じがするが、論争があったのは、1898年[明治31年]に大仏殿が特別保護建造物に指定される前のことだろうか?)

○観阿居士の墓について。
岡田は新納忠之助からの依頼で、観阿居士の墓を模した墓を設計した。建設には香取が協力した。
(※この墓について、思い当たるところがあるので、別に書きたい)

○唐招提寺での感想。
「此建築に特異な、前列の離れた連柱が、希臘祠堂の柱のやうに浮き出して後に深い影を宿して、一層立体的にしつかりと見える。実際に陰影の問題は、建築美の上でいつも重大な要素である。近代のコンクリートの建築では、多くの建物は、平面で取り囲んだ四角な固まりに過ぎない。(…)建築には色々な面の要素が移入されて、もつと彫刻的な、即芸術的に立体的である外観を持つ事が必要である。」

「飛鳥と大原」
○修学院離宮での感想。
「私が学校を卒て間もない時分、趣味ある建築家で、特に日本風の住居建築には、一隻眼を有たれた先輩某氏が、訓へられた言葉を今も記憶する。「面白い意匠がしてあると、気がつくやうな座敷は、見飽きがする。何処に如何なる特徴があるとも、遽(にわ)かに気付かぬやうな座敷で、居心地よきものを上々とする」と言はれた。」

○その他、三輪山を見て「妹背山」を想像し、当麻寺で中将姫の雪責を思うなど、(当時は常識だったと思うが)浄瑠璃に親しんでいたことがうかがえる。

(続く)

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2011.11.22

八千代座

Yachiyo
先日、以前から行きたいと思っていた山鹿市の八千代座に行ってきました。坂東玉三郎の新作舞踏公演。

玉さんは毎年八千代座での公演を続けており、この劇場にかける思いには並々ならぬものがある様子。しかし、今回は音楽がほとんど録音だったのでがっかり。これだったら昨年の「吉野山」を見ておけばよかった…下らない愚痴でどうもすみません。

Yachiyo2


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2011.11.21

平成中村座

Nakamuraza
平成中村座の11月公演(昼)に行ってきました。演目は、角力場、お祭り、渡海屋・大物浦の3本。
江戸時代の芝居小屋を復活、というコンセプトの平成中村座は836席。2階左側の席でしたが、花道の役者さんが近い感じでよかったです。

Nakamuraza2
2階正面の4席がお大尽席(35000円)。

Nakamuraza3
「お祭り」は15分ほどの短い舞踊で、舞台に復帰した勘三郎に、大向こうの掛け声「待ってました!」がぴったり。最後の方で舞台の裏側が開いて、隅田川越しにスカイツリーが見えるという趣向です。が、残念ながら2階席からはスカイツリーが見えませんでした。1階席でも中央より左側の方の席でしか見えなかったのでは?

公式サイト

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2011.11.20

OSN026関西への旅(エピソード)

「中央公論」等に掲載の旅行記には様々なエピソードがあり(脱線も)、実はそちらの方により興味を引かれる。

「弟を送つて」(「中央公論」1925年1月号掲載)
○「思へば長い間私も洋行を夢みた。(…)学校を卒つた数年間は一途に欧州留学を熱望した。(…)日英博覧会の開かれた当時などは、塚本博士と正木美術学校長との推薦で絶好の機会であつたが、之れも病の為め見捨ねばならなかつた。あの時分の感傷的な心を想ひ起すと今でも暗い気持になる」

○岡田の父母、兄弟のこと

○「芸術に関与する一人として作物には強く自分を印したい、(…)此れからの都市の建築の殆と全部が欧米の形式を追ふ事に就ては否む事の出来ない時勢である。然し其洋風建築はやはり日本人のものでありたい。之を意匠するものにとつては日本人の情操が要る。創造の強い力を恵まれて生れて来なかつた私等は、せめて古人の優れた作からでも自分の情操を養育しやうと考へるのである。それには古建築をたゞ眺めればよいのである。(…)其故に私は時々休養を名として、奈良に遊ぶ」

○「初めて船に乗る好奇心を満足する事」云々とある。
(※岡田が船旅をするのは今回が初めてのようだ。)

○「嘗て建築家の洋行といふのは、絵はがきを買ひに行くことだと、行かれぬ負惜しみの皮肉に友達をいやがらせた事もあつた」

○大阪の高島屋呉服店に立ち寄って、「自分の作品はなつかしい。子を持たぬ私には子の感は分らないが、恐らくは其のかるいものが今の感ではあるまいか。(…)店員達が建築が都合よく出来てゐると賞めて呉れるのをお世辞とは聞きつゝも、快くて自分の所でもあるかのやうに無遠慮に其処此処をうろついた。エレヴェーターの上部の狂い獅子に牡丹唐草のガラス・モザイクは和田三造君の図案で小川三知君の努力の作であつた。(…)工事を監督する現場の人達の夏冬の苦労も思ひ出さるゝ。竣工間際の不眠の活動も思ひ出さるゝ。」

○「食辛棒の私は、何んでも品種に限らず、うまいものなら好きである。里芋も其一つだ。早く産する紀州芋もうまい、京の芋は特にうまい。青葉が濃くなる時分には、粒の揃つた指頭大の小芋を知人から送つて貰つて、料理店のより自宅の方がうまい等と誇つても居た。」

○中條精一郎夫人のこと。一度は失明を伝えられていたが、回復しつつある。
(※宮本百合子が中條家の裏面を小説に書いているそうだが、まだ読んでいない。)

○東大寺法華堂を訪れて、「古い建物を修繕するとか、建増をするとか言ふ事は、新しい建物を作るよりも、余程むづかしい仕事で、且酬ひられない仕事である。」
(※岡田は震災で被害を受けたニコライ堂、日本赤十字社本社などの復旧工事を担当している。実感だろう。)

○平城京の都市計画を偲び、その反面、震災後の東京の復興の遅れについて述べる。「区画整理の至難な事業である事には同情を惜しまないが、其の遅々たる状態には焦燥な憤懣も感ぜられる。」
(※内務省土木局の目の上のたんこぶのようだった東京市の道路局長[大蔵省出身]がクビになったなど、生な話が出てくるのは、旅行記にしては少々具合が悪いと思う。)

○「先を急ぐ私達も、玉虫の厨子と橘夫人念持仏の厨子とだけは見遁す事は出来ない。建築家として格別に教へらるゝ事が多いのである。而して其形態や手法からも、装具の金物等からも既に屡々暗示を受け新しい設計に応用した事も少くない。」

○「フエノロサ氏は実は私の先生である。私がまだ年少でお茶の水の中学校(=高等師範附属中学校)に通つた時分、其処で先生から英語の会話を教はつた、其後数年前東京美術学校の玄関前に先生を記念する画像石が立つたとき其の設計に参画した。」
(※今も芸大の美術館近くに立っている。石に線彫で肖像を描いたものである。)

○船長(関根豊作)のこと。「船長は碧梧桐氏の門について、句と字とを好くする。」

○友人木下(正雄)のこと。「彼は中学時代お茶の水の学校で数年間机を並べた旧友である。併も二人ともチビで級中の最末に列したため、文字通り机を並べた仲である。秋になると私はよく初茸を煮たのを弁当の菜にした。彼は其を珍らしがつたので、其後今でも初茸が食膳につくと私は木下君を思ひ出した。」
(※岡田は背が低かったようだが、身長何cmだったのか気になる。木下の名は高師附属中の卒業生名簿には見当たらない。途中で京都に移ったようだ。)

断片的だが、岡田の率直な心情や建築観が現れている。また、生い立ちや経歴、食いしん坊であることまで書いている点が参考になる。
思った以上に長くなったので、項を改めて…。

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2011.11.19

OSN025関西への旅 (続)

中央公論掲載の「弟を送つて」は読者から好評だったようだ。
吉村順三が東京美術学校に入るのも、「弟を送つて」を読んで興味を持ち、岡田の許を訪れたのがきっかけであった。
「漱石先生の文章にも匹敵すべきものと思ふ」(森井健介の追悼文)という感想もあったほどで、徳富蘇峰からも誉められ、有頂天になる岡田であった。

岡田は翌1925年にも正倉院拝観のため奈良を訪れた。
「美の国」掲載の「大和路と武蔵野の秋」には「正倉院の曝涼を拝観し、猶二三日大和路をうろついた」とあり、日付は明記されていないが、黒田鵬心の日記抄(前出)によれば、11月14日のことである。黒田は正倉院で「正木(直彦)氏、岡部氏(?)、岡田信一郎氏夫妻、和辻(哲郎か)君等数人の友人」に会った。

岡田は正倉院のほかに、「宇陀の地方、初瀬から室生にかけて、又談山神社へも詣でた。而して法隆寺に賽した序に龍田へも行つた」。
この文では紅葉など自然美を中心に書いており、建築の記述は少ない。

1926-27年については未見。

1928年(昭和3年)には法隆寺での式典に参加するため、関西を訪れた。これも箇条書きしておく。

「春画の夢」(「中央公論」1928年7月掲載)
(後の方に「僅か四日の泊り客」とあるので、4/8に奈良到着か)
4/9
奈良博物館へ行く。夜、ホテルで小泉策太郎に会う。
4/10
法隆寺防火水道落慶式に出席する予定を変更し、電車で大阪へ行き、大阪朝日社の天平文化綜合展覧会を見る。同社のOが案内してくれる。
食事の後、四天王寺へ(これが初めて?)。
4/11
大阪毎日社長本山の自動車に同乗し、法隆寺へ。聖徳太子奉賛会総裁の久邇宮の一列に同席。西園院の新しい茶室を見る。
午前中は聖霊院で聖徳太子千三百七年回忌、正木(直彦)美術学校長が十七条憲法を拝読。
境内は賑やかで、数奇者の茶会が催されているのを見る。
午後は推古天皇千三百年遠忌の法要。式典の最後には舞楽もあり、岡田は1300年前の法隆寺落慶法要の様子を夢想する。
正木校長の案内で春日社に詣でる。夜、奈良ホテルでの久邇宮の晩餐に同席。
4/12
再び奈良博物館へ行き、天平文化記念品特別展覧会を見る。午後、正木校長、細川(護立)侯爵とともに守屋孝蔵邸を訪れ、収集の陶器、古鏡を見る。
藤井有隣館へ寄る。夜、都踊りを見て、汽車に乗る。
(東京に戻ってからも、東京博物館の御物上代染織特別展覧会、華族会館での唐三彩陶器展を見て、天平文化、盛唐文化を偲んだ)

「中央公論」の記事には同行者が明記されていないが、正木直彦の「十三松堂日記」によると夫妻で行動していることがわかる。また、奈良ホテルでの久邇宮の賜餐に与ったのは「奈良大阪神戸の人々より百人にも上りたり」という。
岡田は記していないが、藤井有隣館の後、岡田と正木は清浦(奎吾)子爵の別荘、喜寿荘に行っている。京都での美術館建設を岡田に依嘱したいということであった。
(岡田の妻が同行したかどうかはよくわからない。岡田は1930年に行われた大礼記念京都美術館の設計コンペの審査員を務めた。1等入選したのは、岡田の教え子、前田健二郎である)

ついでに…。前回、「京都から東京まで何時間かかったのか」と書いた点が解決。
正木の日記の中に、1928年4月12日(木)の夜9時半、京都駅で汽車に乗り、翌日5時半に沼津駅、9時に東京駅に着いた、という記事がある。
「のぞみ」なら2時間20分ほどであるが、当時は11時間半かかった訳である。

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2011.11.18

OSN024関西への旅

岡田が1925年に「中央公論」に掲載した一連の随筆がある。前年秋に奈良などを訪れた際のもので、これまでも引用した「弟を送つて」などを含む。
古寺の来歴など、煩雑な部分も多く、読み流していたのだが、再読してみると、岡田の交友関係や建築観などが出ていて、中々貴重な資料になる。そこで自分用のメモを作ることにした。

(関東大震災の翌年、1924年11月)弟の岡田捷五郎が大隈講堂や神戸市公会堂などの設計コンペで得た賞金で、海外視察に行くことになった。横浜から神戸を経てヨーロッパに向かう前に、正倉院などを見ておこう、ということで、岡田夫妻も神戸まで同行することになった。岡田は「海外へ行く前に日本の建築をよく見ておくように」と、弟にアドバイスしたのではないか、と想像される。

「弟を送つて」(1925年1月号掲載)
11/6
岡田夫妻と弟が乗った箱根丸が11時に横浜を出発。
箱根丸の船長は旧知の人で、若い建築家O(清水組の小笹徳蔵か?)、T文学士、鋼銅問屋のMも同船。

11/7
昼に神戸に到着。弟の親友K(大阪在住)が出迎え。
大阪高島屋(岡田設計)に立ち寄る。4人で夕食。
夜遅く奈良に到着、ホテルで中條(精一郎)夫妻に会う。

11/8
弟を送りに東京から来たK(昨日のKとは別人)とともに、春日社を参詣。東大寺三月堂(法華堂)を拝観。
正倉院を拝観し、新納(忠之介)・関(保之助)の説明を聞く。
遅い昼食を取り法隆寺へ。金堂を拝観、東院の夢殿などは外観のみ。裏の中宮寺へ行くと山階宮の一行(黒板博士ら)が退出するところで、岸(熊吉)奈良県技師に会う。本堂を拝観。
たそがれ時となり、唐招提寺の建築を見る。
弟の親友Kが大阪からホテルに来て、夕食。

11/9
奈良から神戸に向かう。(箱根丸は)12時出帆の予定が3時に延びる。船長室を訪れる(関根豊作船長)。中学以来の友人、木下(正雄=初代京大総長木下広次の長男)が同船しており、弟のことを依頼する。
箱根丸の出発を見送った後、奈良に戻る。山階宮一行(鈴木知事、新納、水木[要太郎?]ら)が宿泊しており、夜食後、活動写真の上映が行われた。

「南都ところどころ」(1925年2月号掲載)
11/10
岡田夫妻は新薬師寺に向かい、本堂を拝観。
いったんホテルに戻り、東大寺に。大仏殿前の燈籠、大仏殿。東大寺戒壇院を拝観(昨夜会った岸技師の紹介)。その後、東大寺真言院の観阿居士の墓を見る。
再び唐招提寺を訪れ、金堂、講堂などを拝観。(薬師寺を拝観?)

「飛鳥と大原」
11/11
朝、奈良停車場で山階宮を見送った後、王子行きの汽車に乗る。車窓から三輪山などを見る。
高田で下車し、車で当麻寺へ。本堂を拝観、中将姫の曼陀羅がある。
車で八木へ向い、電車に乗る。(畝傍山駅で降り)畝傍御陵(神武天皇陵)を拝す。
人力車で久米寺へ。川原寺跡前を経て、橘寺へ。飛鳥川を渡り、岡寺へ。
安居院(飛鳥大仏)に立ち寄った後、飛鳥の地で往時を偲ぶ。
橿原神宮前から電車で奈良に戻る。
夜は(松利という店で)新納と食事をした後、夜の街を歩く。古梅園(※1577年創業の老舗)で徳富蘇峰に贈ろうと「夫唱婦随」の墨を買う。

11/12
奈良を発ち、京都へ。高木(豊三)博士未亡人、美術学校の某と岡田夫妻が同行。
紅葉の修学院離宮を拝観。
昼を高野川に面した平八(※今に残る山ばな平八茶屋)で取り、車で大原の三千院へ。
次に寂光院で建礼門院を偲ぶ。
漱石ゆかりの下河原の梅垣に泊まる。

11/13
西陣の川島織物で歌舞伎座を装飾する織物を見る。
(川島甚兵衛と?)車で高雄の神護寺へ。
清滝川の東岸にある川島の別荘に寄る。
旅館に戻り荷物をまとめ、夜の汽車に乗る。

11/14
朝、車中から富士山を見る。

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多彩な人物が登場するが、そういえばまだ調べていない人も多い。
京都から東京まで何時間かかったのか、といったことも気になる。鉄道関係の文献を見ればよいのだろうが…。

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2011.11.17

西村伊作展

Isaku
INAXギャラリーの「愉快な家 -西村伊作の建築- 展」の会期もそろそろ終わり、というのであわてて行ってきました。展示内容はほぼ図録と同じ。
(11月19日まで、公式サイト

西村の設計した住宅は、やはり大正時代ならでは。と思ったら最初のバンガロー式の自邸が明治39年。早いな…。記念館になっている自邸(大正3年、重要文化財)を見に行きたいです。
西村記念館

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2011.11.16

OSN023修学院離宮

ついでに修学院離宮について(拝観の条件は桂と同様だったはず…)

修学院離宮についても桂と同時期に訪れており(1906年)、拓本が残っている。

また、1924年11月、(前述)夫人とともに捷五郎の外遊を見送った後、奈良、飛鳥、京都とまわり、修学院離宮を拝観した(中央公論「飛鳥と大原」)。
この日の同行は「高木博士未亡人、美術学校の某氏、余等夫婦」であった。紅葉の季節で、庭園の美しさについて記している。

同文中には、「嘗て此処を拝観したとき、両三回共、案内の警手は山寄りのお茶屋、隣雲亭から漸次庭の東側を北に向つて進み池を一周して案内した」とあるので、時期はわからないが、この間にも拝観していたことになる。

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2011.11.15

OSN022桂離宮

岡田は1906年(明治39年)7月に桂離宮を拝観した。
京都の醍醐寺、大徳寺、桂などを訪れ、金物などから取った拓本が残っている。(これが初めての拝観かどうか不明)

桂離宮の拝観については井上章一氏の「つくられた桂離宮神話」に詳しい記述がある。
戦前は、正倉院宝物の拝観と同じように、「高等官」「従六位勲六等以上」などの条件があり、一般の人には拝観は困難であった。(ただし、離宮に編入される前の明治初年、京都博覧会の際に一般公開されたことがある)

ほかに外交官や学者、美術家等も特別許可を得て拝観することができたようである(1895年刊行の「京華要誌」の記述)。
また、東大、早稲田などの建築科学生も拝観を許された。(以上、井上P198-199、214等)
そうすると、正倉院宝物の拝観よりは抜け道が多かったということになるだろうか。

岡田が拝観した1906年7月といえば、大学を卒業した直後である。
同級の本野精吾あたりと訪れたのでは…とも想像されるが、拝観者名簿などは残っていないのか。

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2011.11.14

OSN021正倉院

正倉院といえば…
毎年秋、正倉院宝物の曝涼に合わせて奈良国立博物館で正倉院展が開かれ、多くの人が訪れる。
だが戦前には一般人に拝観の途は閉ざされており、曝涼の際に正倉院宝物を拝観できるのは高等官や有爵者らに限られていた。
岡田は何度か正倉院を拝観しているが、初めて拝観したのはいつだろうか。

まずこれまでも度々引いた「弟を送つて」に、正倉院を拝観した記述がある。
関東大震災の翌年(1924年)11月、岡田夫妻と弟の捷五郎、K氏の一行は奈良を訪れていた(捷五郎はこの後、神戸から乗船し、海外視察に出発するところである)。

天候が不順なため、正倉院が開扉されるか危ぶまれ、一行はまず春日社や法華堂を回った。そのうち天気も持ち直し、

急いで正倉院へ行くと幸に開扉されてもう四五の拝観者も参入して居る。私達もそれに続いた。(…)
倉は窓がなくて僅かに入口から光射が射入するばかりであるので、到底隅々までは明りは透徹しない。拝観者は各々用意した懐中電灯の薄明りで、精巧な宝物に眺め入るのである。旧知奈良美術院の新納氏、博物館の関氏等が居られて詳細な説明を聞く事が出来たのは幸福であつた。

岡田は正倉院を「先年嘗て拝観したことがある」と書いているので、このとき(1924年)が二度目の訪問だったのだろうか。

さて、1910年(明治43年)の「正倉院御物拝観規程」によれば、拝観する資格を持つのは、「一、高等官及高等官の待遇を受くる者、二、有爵者(=華族)、三、従六位勲六等以上の者、四、学位を有する者(=博士)、五、帝室技芸員、古社寺保存会委員及美術審査委員、六、前五号に掲けたる者の配偶者」である。
岡田が1923年9月に東京美術学校教授(高等官三等)になるまでは官位もなく、いずれの条件にも該当しないので、このままでは拝観することができない(はず)。

茶人として知られる高橋義雄(箒庵)も拝観の資格がなかった。これを残念に思った高橋は、親交のあった元勲、山県有朋に、無位無官の者が正倉院、京都御所、離宮などを拝観できないのは不当であると訴えた。
これがきっかけとなって、1919年、帝室博物館総長が「学術技芸に関し相当の経歴ありと認め」た場合は、特別に許可するように規程を改正し、高橋も同年秋に拝観することができたのであった。(ちなみに当時の帝室博物館総長は森鴎外)

もっとも、前述の条件にも抜け道はあり、宮内省や帝室博物館の嘱託などの名義を得て拝観する、という場合もあったようである。
岡田の場合はどうだったのだろうか。規程が改正されてから(1919年~1922年の間に)初めて拝観したのか。あるいはそれ以前に、東京美術学校人脈を生かして拝観することができたのか。

なお、岡田は翌年(1925年)にも正倉院を拝観した。
黒田鵬心の日記抄によると、デルスニスと同行し、正倉院で正木直彦(美術学校長)、岡田夫妻、和辻(哲郎か?)らと会った。
黒田が初めて拝観したのは5年前(1920年なら、高橋が拝観した翌年)で、今回は2回目だった。

【参考】内藤一成「もうひとつの山県人脈」(「山県有朋と近代日本」所収)

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2011.11.13

旧奈良駅舎

Naraeki11
JR奈良駅で下車すると、曳屋をした旧駅舎が観光案内所となっていました。
後で調べると、2009年7月にオープンしていたとのこと。毎年奈良に来ているのに初めて見たとは…。

Naraeki11_1
側面から見ると、後方に建物が続いていたのを撤去した痕跡があります。

Naraeki11_2
中には朱塗りの柱が立っています。平城宮の復元の際に作られたものを再利用しています。

RC構造の建物の再生事例ですが、実現までには多くの関係者のご苦労があったものと思います。今さらですが、歌舞伎座の正面部分だけでもこんな感じで保存できなかったものか、と悔やまれます(勝手な意見)。

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2011.11.12

正倉院展

Shosoin2011
恒例にしている正倉院展に行ってきました。相変わらずの混雑です。(14日まで開催)

今年の呼び物は豪華な太刀と、織田信長が切り取ったことでも有名な香木・蘭奢待あたりでしょう。

Narahakumokei
奈良博物館の旧館(片山東熊設計)は、もっぱら新館につながる裏口の方から入るようになっており、本来の表側からは入れなくなっていました。
かつての玄関部分は休憩室になってしまったという状態…。(cf:早稲田大学旧図書館?)

設計者の意図とは違ってしまうので、できれば本来のアプローチで入りたいものです。

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2011.11.11

OSN020弟妹たち

家族話の続き。

弟(三男)の岡田復三郎は1886年(明治19年)生まれ。早稲田大学文学部を卒業、春陽堂、時事新報社を経て、徳富蘇峰が経営する国民新聞社の記者となった。孤煙(こえん)というペンネームで、とにかく歌舞伎が好きな人だったらしい。後で詳しく書くことがあると思う。
岡田信一郎は、杉並の復三郎邸を設計したらしいが、何も資料は残っていない。

四男の孝吉は1888年生まれ。日本橋で歯科医を開業していたが、関東大震災後、笹塚(洗足)に移った。神楽町の岡田信一郎宅の一室を借りて、そこでも診療を行っていたそうだ。1931年に亡くなったという。
つまり、1931年に四男死去、1932年に次男(岡田信一郎)死去、1934年に長男(阿蘇男)が死去、と岡田家に不幸が続いたことになる。

妹のあや子は、中国研究家の後藤朝太郎(1881年-1945年)に嫁いだ。
岡田は後藤邸を設計した。

一番下の五男が岡田捷五郎で、1895年生まれ。早稲田中学から東京美術学校に進学、兄の信一郎から建築を学んだ。卒業後に軍役を勤めた後、1923年(大正12年)1月から兄の設計事務所に勤めた。後に東京芸術大学教授。捷五郎についても別に詳しく書くことがあると思う。
妻は医学士・伊庭秀栄(東大医学部卒)の四女・春である。

信一郎(及び捷五郎)は子どもに恵まれなかったが、復三郎、あや子、孝吉の子どもたちが大勢おり、神楽町の自宅や鎌倉の別荘によく遊びに来たので、にぎやかだったという。

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2011.11.10

OSN019兄、阿蘇男

マニアックな話が続くが、ここまで来たら岡田の兄弟のことも書いておく。

兄は岡田阿蘇男と言う。
父が亡くなったときは中学2年で、15歳だったということなので、1881年生まれのはず。
前にも書いたが、名前の由来は、父が熊本鎮台病院(熊本城付近にあった)の赴任中に産まれたためだろう。

「この長男は家をかえりみるような人ではなかったので、早く父を失った信一郎は結局名前どおり長男の立場にたち(…)」という。神代雄一郎氏の「近代建築の黎明」にある話だが、おそらく吉田五十八あたりから聞いた話と思われる(初出は1962年2月)。
また、「兄阿蘇男は海軍兵学校におり、留守がちで、信一郎が長男の役を果たさなければならないはめになった」ともいう。これは前野まさる氏が岡田春(捷五郎の妻)に聞いた話のようだ(「日本の建築 明治大正昭和」、1982年)。
実際はどのような人だったのか。

阿蘇男は高等師範附属小学校・中学校の出身。中学時代は柔道部に入り、また短歌にも親しんだ。
卒業後は、海軍兵学校に入った。

ここで気になることがある。中学校卒業が1899年(明治32年)3月、海軍兵学校入学が12月と、少し間があるのだが、この間に書いた「洋行」という題の一文である。船で港を離れるシーンを描いた短文だが、実際の経験を書いたものなのか、フィクションなのか?実話だとすれば、留学目的か何かでいったん日本を離れたが、まもなく帰国したことになる。それとも外国への憧れをこめて書いたフィクションだろうか。

海軍兵学校は中退し(病気のため?)、外国語学校に籍を置いた時期もある。

その後(今度こそ?)アメリカに留学し、帰国後は事業をしていたようだが、この辺もはっきりしない。
最後は、勤め人に落ち着き、凸版印刷に勤めた。
岡田の随筆「弟を送つて」(中央公論掲載)に、「私達の兄弟は一人は会社員となり(…)」とあるのが、管見の限り、岡田が兄について書き残した唯一の文章である。

岡田(1932年死去)より少し遅れて、1934年に亡くなったという。享年54ということになる。

母親が弟(信一郎)の方に期待をかけたのは確かである。エリートコースを歩む弟と何かにつけて比較され、面白くないことも多かったのかもしれない。
だが、岡田の経歴が一直線に近いのに比べて、中々起伏に富んだ生涯を送ったようであり、自分としては興味をひかれるのである。

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2011.11.09

芝給水所

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オランダ大使館の隣にある芝給水所。
以前あった煉瓦造の建物は10年ほど前に取壊されましたが、旧建物の部材がモニュメントとして保存されているのに気付きました。

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2011.11.08

オランダ大使公邸

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11月3日、オランダ大使公邸が公開されると聞いて、あわてて行ってきました。
関東大震災で明治時代に建てられた洋館が焼失し、昭和3年(1928年)に再建。
設計はガーディナーと上林敬吉。

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構造は木造からRC造となったが、デザインはもとの建物を再現するようにしたのだとか。
木を強調した書斎と白を基調としたダイニングルームが対象的です。
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階段室のあるホールを中心に部屋を配する間取りは、洋館の正統派(?)。
ステンドグラスやテラスもいい感じ。


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庭園との関係もよいです。
この建物については「輸入住宅スタイルブック」Vol4で詳しく紹介されています。

確か、何年か前に取壊し寸前だったのが、建築学会の要望を受けて保存されることになったという話を聞いた記憶があります。
メンテナンスもよく、大切に使用されているようで、そのことにも感銘を受けました。
これまでも年1回庭園が公開されていたようですが、建物内の公開は今年が初になるのか? 今後もぜひ続けてほしいものです。

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2011.11.07

OSN018岡田の母

岡田の母、いちは盛岡の出身である。父親は、田村藩の御典医で一関に藩の医学校を開設した笠原耨庵、兄は(前に少しふれた)軍医の笠原親寧である。
石黒忠悳の家に預けられて育ったという話もあり、石黒か笠原の紹介で岡田謙吉と結婚したのであろう(1877年頃?)。

謙吉、いち夫妻には、阿蘇男(1881年生)、信一郎(1883年生)、復三郎(1886年生)、孝吉(1888年生)、あや子、捷五郎(1894年生)の子どもたちがいた。

1895年に謙吉が亡くなったときは、中学生の阿蘇男から生後間もない捷五郎まで6人の子どもがおり、いちも途方に暮れたことだろう。資産(東五軒町の家)と扶助料(遺族年金)があったから貧困という訳ではなかったかもしれないが、働いて家計を支え、それぞれの子に教育を受けさせるのは大変なことだったと思う。

岡田は母親について書いている。(中央公論掲載「弟を送つて」)

父が死んだのは母が三十七、私は十二で中学一年の時であつた。父はまだ幼い五人の男子と、一人の女子と、及び僅少の財産とを遺した。母はこの苦境に立つて雄々しく奮闘した。(…)
意志弱行の私などが、今どうやら世の中に立つて行く事の出来るのは、一に母の強い意志に感奮した結果に外ならない。(…)
母はか弱い痩せた小柄の女であつたが、心は常に緊張してゐた。私達がかけた苦労の為に年よりは早く老けて、六十八の今七十五以上にも見られる。心のしつかりした母も今は老いて穏やかな老媼に過ぎない。
岡田は旅行にも母親同伴で行くことが多く、親孝行なことで知られていた。
1932年に岡田が亡くなった後、未亡人となった嫁(岡田静)と大和郷(六義園の近く)に建てた家で暮らした。岡田静は姑によく仕え、1943年に亡くなるまで世話をした。

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2011.11.06

OSN017日清戦争

謙吉は1891年に現役を退くと、職工を指導して、自ら消毒材料の製造を行うようになったという。日清戦争が起こった際、消毒材料の需要に不足なく賄うことができたのは、謙吉の功績だという話もある。追悼文にある表現なので、やや誇張もあるかもしれないが、相当な規模の工場だったのかもしれない。

「日本の建築 明治大正昭和」の評伝に、岡田の父が亡くなった後、母は「謙吉の開発したガーゼ包帯を生産し、一家を支えなければならなくなった」とある。これを読んで、母がせっせと内職に励んでいたように想像していたのだが、工場経営を引き継いだ、という意味だろうか?
(製造工場の記録を探しているが、まだ見つけられない)
話が先回りしてしまった。

日清戦争(1894~1895年)が起き、開戦から2か月ほど経った1894年11月17日に謙吉も召集された。(末子の捷五郎は11月24日に出生)
大本営のある広島に赴いたのだが、病気となり、翌年の春に東京へ戻ったという。そして9月20日に亡くなった。

岡田の父親について深入りしすぎた気もする。
まだ細かいところで不明な点も多いが、「日本の建築」の評伝、年譜に要領よくまとめられているので十分だろう。

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2011.11.05

OSN016薬剤官の仕事

岡田謙吉は1877年(明治10年)の西南戦争での功により昇進したという話もあるのだが、よくわからない。西南戦争のとき熊本に行ったという話もあるが、実際は大阪の陸軍臨時病院にいたようである(石黒が病院長)。史料の裏付けがほしいところである。

その後、いったん東京の陸軍本病院に戻り、1878年~1882年は熊本鎮台病院に赴任。この時期に長男が生まれ「阿蘇男」と名づけた(家族も熊本に行ったのか?)。
次男の信一郎が生まれたときには東京に戻っており、東京陸軍病院勤務だった。

ここで薬剤官の仕事について書いておく。
陸軍の衛生部で薬剤や衛生材料の事務を扱うのが「薬剤官」である(昭和になって薬剤将校という名称になった。現在の自衛隊では薬剤官)。
薬剤官の中に階級があり、(明治当時は)薬剤官の中の最高位が「薬剤監」で、次いで一等薬剤官、二等薬剤官、剤官補…となっていた。
配属先は主に各地の病院であった。軍医と違って前線に出ることはなかったようだ。

(理解不足な点は詳しい方のご教示をいただきたい)

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2011.11.04

OSN015陸軍衛生部の人々

石黒忠悳はもともと大学東校で教官をしていたので、岡田謙吉とはその頃からの縁かもしれない。
石黒は1871年(明治4年)、文部省をやめ、松本良順の薦めで陸軍(当時は兵部省軍医寮)に入った。軍医制度の草創期である。
当時の軍医・薬剤官の中で、気になる人物を挙げてみる。
(カッコに陸軍入りした時期、最後の階級などを記すようにしたが、精査する時間がなく、後日訂正の予定)

石黒忠悳(1871年→軍医総監) 
小山内建(1872年→一等軍医正、小山内薫の父)
伊東祐順(1873年→一等軍医、建築家・伊東忠太の父)
大澤昌督(1874年→薬剤監、建築家・大澤三之助の父)
笠原親寧(1874年→一等軍医正、岡田の母の兄)
岡田謙吉(1874年→薬剤監)
藤田嗣章(1877年?→軍医総監、画家・藤田嗣治の父)
森林太郎(1881年→軍医総監、=森鴎外)

陸軍本病院が麹町区隼町にあり、麹町区・牛込区あたりに住んでいた者も多い。住まいも近く、家族ぐるみの付き合い、公私にわたるつながりがあったようである。

例えば、藤田嗣治と小山内薫はいとこ同士(母親が姉妹)である。
また、藤田嗣治と、岡田の弟(復三郎)が生まれるときのことだが、藤田の母と岡田の母は同時期に懐妊し、家も近いのでお互い毎日のように行き来をし、同じ日に出産したという話を聞いた。
※両者の経歴を確認したところ、藤田嗣治は1886年(明治19年)11月27日、岡田復三郎は同月28日の出生となっていた。
自分は勝手に陸軍衛生部ネットワークとも呼ぶべきものを想定している。
(ちなみに「軍医部」から「衛生部」と改称されたのは1888年)

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2011.11.03

OSN014岡田の父、謙吉

岡田謙吉については陸軍薬剤監ということだが、事績がよくわからなかった。護国寺にある岡田家の墓碑を手掛かりに、「官員録」を見たり、色々と苦労して調べたのだが、だいぶ後になって「明治過去帳」に略歴が掲載されているのを知って拍子抜けしてしまった。
(この本は個人が本業の傍ら調べて自費出版したもので、明治時代に亡くなった31万人のデータが載っているという。根気のある人がいたものである…)

謙吉は1851年(嘉永4年)に上総国(千葉県)の農村に生まれた。石黒忠悳は1845年生まれなので6年下。ペリーが黒船で来航(1853年)する2年前である。
幕末維新の激動期に成長した訳だが、維新前後に何をしていたのかはよくわからない。(佐倉あたりにいたのかも…?)

1871年(明治4年)に大学東校(東大医学部の前身)に入学し、1874年に陸軍剤官補になった(「陸軍省大日記」をネット上のアジア歴史資料センターで閲覧できた。便利になったものである)。

一時、川崎家の養子になったが、後に岡田姓に戻った。
川崎家は鶴牧藩の士族だったようだが、鶴牧藩(千葉県市原市に陣屋があった)の史料はあまり残っていないらしく、川崎家(あるいは藩医か?)のことも、復姓した理由も不明である。

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2011.11.02

OSN013石黒の日記

石黒は明治から昭和に及ぶ膨大な日記を残しており、最近、国会図書館の憲政資料室に収められた。その中には時々岡田のことが出てくるのであるが、非常に読みづらい字で、ほとんど読むことができないのは残念である。
森鴎外に関わりのある部分などは研究者が引用したりしているが、膨大な量の割にはそれほど読んで面白いというものではない(?)ので、おそらく書籍化されることもないだろう。

かろうじて解読した中から、岡田に関連した項目を拾ってみる。
○1906年、東京帝国大学の卒業式に出席。(このとき岡田は建築学科を首席で卒業し、明治天皇より恩賜の銀時計を授与される)
○関東大震災で石黒家の土蔵が被害を受け、修繕につき岡田に相談している。
○石黒の妻は1925年に亡くなるが、墓所の設計を岡田に任せている。(1927年竣工、谷中霊園)
○1931年、岡田の病床を見舞った石黒は、「重篤」と記している。翌年4月に岡田は亡くなった。

時間があればまた解読に挑戦したい。

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2011.11.01

OSN012石黒忠悳

石黒忠悳は明治時代に陸軍の軍医総監を務めた人物。岩波文庫に自伝「懐旧九十年」が入っており、文学史に興味のある方は森鴎外の上官として名前を記憶しているかもしれない。

前回ふれたように、石黒は岡田の父の上官であった。
岡田信一郎の名付け親になったのも石黒だという。岡田は実際は次男なのだが、長男だと勘違いした石黒が「信一郎」という名を付けてくれたという。

岡田は日本赤十字社の建築顧問となっているが、これも石黒の推薦があったのだろう。岡田の仕事の中に赤十字関係のものが多いのは、石黒のおかげということになりそうだ。
また、石黒の同郷の実業家に西脇済三郎という人がいる。石黒は西脇に岡田を紹介したのではないかと思う。小千谷小学校、小千谷銀行支店、西脇家納骨堂、西脇健治邸、太陽生命本社などの設計は、西脇家関係の仕事である。

後に農林大臣を務める石黒忠篤は長男で、岡田とほぼ同年代である(忠篤は2ヶ月ほど後の生まれ)。忠篤は高等師範附属小学校・中学校と進み、中学では岡田の1学年下であった。お互いによく知っていたはずだが、2人とも何も書き残していないようで、残念である。

(蛇足的)長男の忠篤と今和次郎の関わりはよく知られている。(今は美術学校卒業後、岡田の推薦で早稲田の助手となり、後に早稲田大学教授)
民家研究の会、白茅会(1917年)には、柳田國男、石黒忠篤、内田魯庵、細川護立と、建築関係の佐藤功一、今和次郎、大熊喜邦、木子幸三郎、田村鎮が参加した。白茅会の活動自体は1年ほどで終わるが、今和次郎は研究を続け、全国の民家を調査した。
「石黒(忠篤)は当時、農商務省の農政課長の席にあり(…)(今のために)農村の住宅と副業の調査などの名目で、報告書等一切なし、見たことをただ胸に納めておくだけの公務出張を"乱発"してくれた。」という。(藤森照信、岩波文庫「日本の民家」解説より)

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