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2011年10月の12件の記事

2011.10.31

OSN011小山内薫

富士見小学校の上級生に小山内薫がいた。小山内と岡田は何らか関係があったと思うが、お互いに何も書き残していないし、第三者も何も書いていないようなので、今のところは推測を重ねるしかない。

岡田と小山内は、建築・演劇と活動の分野は異なるが、山の手育ち、一高から東大、言動が派手、働き盛りの年で死去など、何となくイメージがかぶるところがある。
小山内の父親は陸軍の軍医であったが、早く亡くなった。上官の石黒忠悳は小山内家の財政の面倒をみてくれた。小山内ははじめ軍人を志願していたのだが、健康上の理由で断念した。その後、文学や演劇という軟派な分野に進んだので、石黒はあまり快く思っていなかったのではないかと思う、
岡田の父親は陸軍の薬剤官で、やはり早く亡くなった。岡田と石黒の関係については、後であらためて書きたい。

岡田と小山内には共通の知人も多かった。
小山内が市川左団次とともに自由劇場の公演を行った際のこと。小山内の義弟が洋画家で東京美術学校教授の岡田三郎助だった関係だと思うが、岩村透(同校教授、美術評論家)が演目の相談に乗ったり、古宇田実(同、建築学)が舞台装置を担当するなどしていた。
日本初のカフェとされる銀座のカフェープランタンは、小山内が名付け親である。店の内装は岡田と古宇田が手がけたとされる。
また、小山内が書いた短編小説「梅龍の話」は、赤坂の芸妓が箱根の宿で洪水にあうというストーリーで、萬龍の実話をもとにしたもの。萬龍は後の岡田夫人である。

もっとも、共通の知人が多かったとしても、当人同士が仲がよいとも限らないが…。

岡田が遺した設計図面の中に、下谷二長町にあった歌舞伎劇場、市村座の計画案がある。大正時代の市村座は中村吉右衛門(初代)や尾上菊五郎(六代目)が活躍し、「菊吉時代」「二長町時代」と呼ばれる全盛期であった。大正中頃、市村座新築の計画が何度か新聞で報じられたが、結局資金難で実現はしなかった。
その頃、小山内は市村座の顧問を務めていた。劇場経営者の田村に岡田を紹介したのは小山内ではないか…とも想像しているのだが、どうだろうか。

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2011.10.30

OSN010富士見小学校

岡田は1895年(明治28年)に富士見小学校(麹町区)を卒業した。
自宅が牛込区にあるのに、なぜ麹町区の小学校に通ったのか、というのも少々疑問ではあるが、弟たちや鳩山薫も東五軒町から富士見小学校に通っていたので、そう珍しいことではなかったのだろう。学校までは1kmほどの距離になる。

岡田はいつ小学校に入学したのだろうか。
当時の小学校令で、満6歳に到達すると就学義務が生じるが、1889年以降、東京では4月が学年の始期になったはずである(それまでは9月入学だった)。

岡田は1889年(明治22年)11月で満6歳になる。翌年4月に小学校に入学し、1896年3月に卒業(尋常4年、高等2年)していれば順当である。だが、1895年に卒業しているということは、「飛び級をした」か、「1889年4月に入学した」か、のどちらかだろう。
当時は満6歳になる前から学校に通ったという例もあったようで中々ややっこしい(谷崎潤一郎、内田祥三など)。

あとは学校に記録が残っているかどうか、であるが、富士見小学校は大正時代に建てられた木造校舎を長く使っており(都心部では珍しい?)、1945年の空襲で防火壁を残して全焼してしまった。

入学時期の問題は、岡田の年譜を作ろうとする者にとっては大問題なのであるが、それ以外の人にとっては、まあ、どうでもよいことで…。

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2011.10.29

OSN009東五軒町を離れる

岡田が東五軒町で過ごすのは、ちょうど大阪市公会堂の設計コンペの時までである。
1912年(大正元年)10月末がコンペの締切りであったが、11月始めに岡田家は同じ牛込区内の市谷薬王寺町14番地の借家に引っ越し、東五軒町の土地は売却してしまった。
(この頃は、母親、弟妹たちと同居していた)
岡田にとって東五軒町の家は懐かしい家だったはずだが、なぜ引っ越してしまったのだろうか。
当時の岡田の肩書は、早稲田大学教授及び、東京美術学校嘱託(講師)ということになるが、市谷薬王寺町は早稲田大学には近くなるものの、美術学校への通勤には不便になったのではないだろうか。

土地を処分したのは経済的な事情(弟たちの教育費など)か?とも想像されるが、何となく腑に落ちないところである。

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2011.10.28

OSN008東五軒町の家

岡田が青少年期を過ごした東五軒町の家について。

1892年(明治25年)頃(?)から1912年(明治45年)まで(=岡田が小学校のときから、大学を卒業し、大阪市公会堂を設計する頃まで)、岡田家は牛込区東五軒町38番地にあった。
このあたり、江戸時代には武家の住宅が並んでいた場所である。参謀本部が1884年に作成した地図を見ると、東五軒町38番地は500坪以上ある屋敷になっている。

その後、この土地は分筆され、38番1号(157坪)は岡田家、38番2号(364坪)は柴田家の所有になった。柴田家は「実行教」の本部であった。富士講をもとにした教派神道である。
…少年時代の岡田は、隣りから響く太鼓の音を聞きながら、成長したのだろうと想像している。

なお、柴田家の跡取り、柴田道守(1900年生まれで、岡田の17年下)は、早稲田大学で建築を学んでおり、卒業後、岡田建築事務所に入り、明治生命館などの設計に関わったようだ。父が亡くなったあと、教祖を継いだ。

また、鳩山家が音羽(今の鳩山会館の場所)に移る前は、東五軒町に住んでいた。鳩山一郎と岡田が親友になるのは中学時代からのようだが、鳩山は幼少期を東五軒町で過ごした訳だから、そのことも2人が親しくなった一因だろうと想像する。

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2011.10.27

OSN007岡田の恋?

「建築探偵術入門」(1986、文春文庫ビジュアル版)はひところ座右の書としていた懐かしい書である。
岡田信一郎の作品では、明治生命館、歌舞伎座、日本赤十字社東京支部、黒田記念館、鳩山一郎邸、山尾邸が掲載されている。鳩山邸の説明文にある次の下りは、中々印象的だった。

設計者の岡田が若き日に鳩山夫人(引用注:鳩山薫)の妹に恋したという、知る人ぞ知るのエピソードがある
(文庫本は「東京建築探偵団」の共著。この項の執筆者は国立科学博物館の清水慶一氏)

その後、岡田信一郎のことをあれこれ調べるようになって10年以上経つが、未だにこの話の出所がよくわからず、謎のままとなっている。文献資料には見当たらない話のようだ。
「建築探偵術入門」刊行の1986年には、鳩山一郎の長男、威一郎氏(参議院議員)も存命であった。鳩山家側から聞いた話なのだろうか。
また、このエピソード通りだとしても、いつ頃の話なのだろうか。

「薫さんは岡田信一郎の近所に住んでいて、それで鳩山一郎が岡田のところによく遊びに来たらしい」という話も耳にしたのだが、本当だろうか。

薫の父、寺田栄は、薫が生まれた1888年(明治21年)には横浜地裁勤めで横浜にいた。寺田が衆議院書記官となって東京に転居し、小石川諏訪町、霞ヶ関(官舎)などと居を移した。薫が高等小学校4年の1902年(明治35年)、母・いくが35歳の若さで亡くなった。
このときの寺田家の住所は牛込区東五軒町38番地であるが、これは岡田の自宅と同番地である。

1902年といえば岡田は数えで20歳、第一高等学校の学生である。おそらく、涙もろい岡田は寺田家の不幸に同情して号泣したことだろう。
(薫は数えで15歳である。その妹だとすると、少なくともこの時点で岡田の恋愛対象になるとは考えにくい…)

この翌年、薫は高等小学校を卒業して麹町の女子学院に入学し、父と同郷の帝大教授・寺尾亨の家(牛込区喜久井町)に預けられることになった。薫が音羽の鳩山邸に遊びに行くようになったのはこの頃からだという。
(妹はどこにいたのか…?)

【参考】鳩山会館(公式サイト)

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2011.10.26

OSN006鳩山と森久保

建築家H」の項で書いた森久保善太郎についてのコピーが出てきたので補足。

森久保は14歳のときから18年間アメリカに滞在。スタンフォード及びイェール大学で学び、1909年(明治42年)に帰朝した。鬼怒川水力電気常務取締役であったが、狭心症のため、1923年(大正12年)2月4日に48歳で亡くなった。
死亡広告を見ると、友人総代8人の中に、鳩山一郎の名前が見える。また、森久保の自宅は牛込区神楽町2丁目16で、岡田信一郎とは同じ町内である(岡田は神楽町2丁目23:神楽坂をはさんで反対側になる)。

鳩山邸は、関東大震災の際に基礎工事の段階だったらしいから、設計時期は1923年の前半頃であろう。
そうすると、鳩山が建築家Hへの設計依頼を断ってから間もなく、森久保が亡くなったのかもしれない。鳩山としては、やはり気になったことであろう。
建設当時の回想から、森久保の名前も思い出されたのではないだろうか。

また当初、建築家Hに設計を頼んだのは、鳩山も森久保も、岡田が歌舞伎座の仕事などで多忙なことを気遣ってのことだったのではないか、とも想像される。

【参考】読売新聞1909.5.20、1923.2.6

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2011.10.25

OSN005鳩山邸の間取り

岡田信一郎が設計した洋風住宅は「中廊下形住宅」が多い。中廊下の北側に台所、トイレなど、南側に居間、書斎などを配置するのが中廊下形住宅の特徴であるが、加えて、南側中央の一部屋を庭の方へ突出させて日当たりのよいサンルームとするのが岡田流(?)である。(以下、便宜的に岡田式中廊下形と呼ぶ)
岡田が設計した住宅の多くは取り壊されてしまっているため、実際に残っている鳩山邸は貴重である。

さて、岡田式中廊下形はいつ頃確立されたのだろうか。それを知るには岡田が設計した住宅を年代順に並べてみればいいのだろうが、あいにくはっきりしたことがよくわからない。

初期作品の高木博士邸(1913年)では、(東西に細長い敷地条件も関係あるかもしれないが)岡田式中廊下形とは異なった間取りである。
また、田辺淳吉との連名で1911年に発表された「紳士住宅図案」(東京勧業展覧会出品建築図案集の12図=15/85)は、(平面を決定したのが岡田かどうか疑問もあるが)やはり岡田式中廊下形ではない。

鳩山邸より少し前(1922-1923年)の村上邸(麹町)と村上邸(紀尾井町)の洋館は岡田式中廊下形になっている。
この間の10年ほどが空白となっており、この期間に岡田が設計した洋風住宅の平面については、今のところよくわからない。

岡田建築事務所の主任だった三井道男(早稲田出身の教え子)の設計した大川邸(1925年)が江戸東京たてもの園に移築されているが、これを見ると中廊下形より新しいタイプとされる「居間中心形住宅」になっている。
それぞれの施主の意向もあるだろうが、設計者の世代の違いを示すものであろうか。

【追記】高木博士邸の竣工年を訂正。(12/6)

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2011.10.24

OSN004鳩山和夫像(続)

1913年(大正2年)4月、鳩山邸内で一郎の父・和夫の銅像の除幕式が行われた。和夫は1911年10月に55歳で亡くなっていた。
銅像は胸像で、台座は岡田信一郎が設計したということである。

そうすると、あの少々不思議な鳩山夫妻像(「歴史群像」サイトの写真)は、1913年にまず和夫の胸像が建てられ、1931年に春子の全身像を付け加えるようにして現在の形になったのかもしれない?

また何を記念して銅像を建てたのだろうか。
鳩山春子は1861年生まれで、1930年に数え年70歳で古希となる。1881年に和夫と結婚したので、生きていれば1931年が結婚50周年の金婚式である。このようなことから、夫婦の銅像が建てられたのかもしれない。

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2011.10.23

OSN003鳩山和夫像

鳩山会館の庭に、鳩山和夫・春子夫妻の銅像がある。鳩山和夫の方は胸像、春子の方は全身像で、中々立派なものである。

銅像にある銘をみると昭和6年とあり、もしかすると銅像台座などの設計に岡田信一郎が関与しているのではないか、と岡田ファンとしては想像してしまう。(鳩山の日記に記述はないだろうか…)

実は胸像+全身像という組み合わせは、松本順・石黒忠悳像(ブログ「蔵書目録」掲載の写真)の例がある。木下直之氏は「松本の半身肖像彫刻の台座に全身像の石黒が慕うように身を寄せた群像表現で、松本の肖像は画中画ならぬ彫刻中彫刻という不思議なもの」と述べているが、この台座を設計したのは岡田信一郎である。

もう一つ不思議なのは、和夫像である。

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2011.10.22

OSN002建築家H

鳩山一郎が自邸を建て替えようと考えていたところ、「森久保善太郎といふ人が来て、Hといふ建築家を紹介し、これに設計をして貰ふことにした。」
これを知った岡田は憤り、「お前が家を建てるといふのに、俺に相談しないといふ法があるか」と言ったという。そこで鳩山はHを断り、岡田に設計を頼むことにした…。

この建築家Hとは誰なのか?また、「森久保善太郎」の名をわざわざ記しているのは何か理由があるのだろうか?

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2011.10.21

OSN001鳩山邸の施工者

鳩山一郎邸は施工者不明ということになっている。
清水組、大林組、竹中工務店、戸田組といった現在に続く建設業者であれば、記録も残っているだろうし、「鳩山邸を施工したのは当社」と自慢するはずであるが、そうした形跡はないようだ。

岡田が設計した住宅の多くは、小林組(小林富蔵)が建てたことがわかっているので、あやしいと思ったのだが、小林組を紹介した記事の中に鳩山邸の名はない。島藤の社史にも記載はなかった。
建設当時(大正12年頃)の鳩山一郎の日記は残っていないのだろうか…?

※OSNは「岡田信一郎の謎」の略語です。(岡田信一郎ネタの略かも)

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2011.10.20

岡田ファンとして

ブログの更新も滞りがちな今日この頃。
思い立ってこれから、建築家・岡田信一郎氏をめぐる謎について、書いてみます。

謎といっても、自分にとって謎、ということ。素人ゆえ、建築史上どうなのか、といったことはわかりません。
また、調べ方が悪くてわからない、というだけで、書いているうちに謎が解けることもあると思います。

なお、岡田信一郎については「日本の建築 明治大正昭和」シリーズの8巻「様式美の挽歌」(1982年)に評伝があり、年譜もついているので、岡田信一郎に関心のある方はまず読んでください。

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