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2011.01.15

ルビエンスキー

以前に「綜合美術協会」の項目でルビエンスキーのことにふれた。当時はどういう人物なのか全くわからなかったが、「内田魯庵山脈」の中に「ルビエンスキ伯爵」が登場していた。

「ルビエンスキ伯爵」が描いた幻想的なエッチングが同書(下 P77)に掲載されている。これは三田平凡寺が主催する趣味の会「我楽他宗」の機関誌「趣味と平凡」17号(1923年3月発行)の口絵で、ルビエンスキーは「我楽他宗」に参加していたという。
それで再度調べてみたのだが、不明な点がまだ多く、ご存知の方にはぜひご教示を願いたい。

ステファン・ルビエンスキーはポーランドの伯爵家出身という。ウィーン大学で政治学を学んだ。その後、「倫敦や巴里の外交場裡に起ち」(外交官だったのか?)「官を辞して伊太利に旅を続け日本に来る様になつた」(1922.7.6朝日新聞)というのだが、この辺の経過がすっきりしない、ポーランドは第一次大戦後に共和国となって身分制度も廃止されたというが、その関係だろうか。
ジナ夫人は、パリで哲学を学び、第一次世界大戦の際は赤十字の救護班に入り、その後ロシアに行きスパイに間違われたこともあるという経歴の持ち主である。

夫妻が日本に来たのは1921年の春(?)である。2人とも芸術味豊かであり、社交的な性格だったようだ。来日以来、堀越三郎(=「明治初期の洋風建築」の著者か?)が後援をしていたという。

1922年3月、ルビエンスキーは平和記念博覧会の美術館に自作のじゅうたん2点を出展して注目を集めた。同年7月には星製薬を会場にデッサンやじゅうたんの作品展を開いた。

さらに12月、ルビエンスキーは青山の自宅で各国の外交官らの集まりを主催した。フランス大使クロ-デルやポーランド公使館職員、来日中のビアード博士らが出席し、建築家レーモンドの講話などがあったという(1922.12.28-29朝日新聞)。
また、1925年の記事によれば、当時借りていた茗荷谷の部屋で、毎週水曜日夜にジナ夫人を中心にした談話会を開いており、大学生や音楽家、美術家らが参加して芸術談義をしていたという(1925.3.1朝日新聞夕刊)。さながらフランス上流階級のサロンを思わせる。
(高浜虚子の次男で音楽家の池内友次郎は、1924年に慶応大学に入学し、その頃ルビエンスキーから和声学を学んだということである)

このように、当時ルビエンスキー夫妻は話題の人であり、しばしば新聞ネタにもなった。

芸術だけで生計を立てるのは難しかったのか、関東大震災後、ルビエンスキーは貿易会社に勤めていたという(1926.8.1読売)。
1926年3月、夫人は単身、ポーランドへ帰ることになった。送別会では、「スイスのダルクローズに会いたい」「日本と欧州の文化交流の機関を作りたい」と抱負を述べていた。
(夫人はジュネーブで新渡戸稲造とともに日本の紹介に尽力したという話もある。新渡戸は1920年5月から1926年12月まで国際連盟事務局次長に就任していた。)
ルビエンスキーはしばらく日本に残っていたが、同年8月に突然、帰国してしまった。「数年後には再来日したい」と語っていたということだが、何があったのだろうか。その後の夫妻の消息もよくわからない。

ルビエンスキーの活動は、大正期の国際的でリベラルな雰囲気をよく示すものだろう。

※当時の新聞では「ルビエンスキー」という表記が多いこと、尚智庵氏のサイトを参照し、表記を「ルビエンスキー」にしました。

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コメント

ルビエンスキのスペルが気になって検索してみたところ、以下の記事を見つけました。
http://biographien.kulturimpuls.org/detail.php?&id=396

Stefan Lubienski(1893.3.10-1976.2.23)
原文は読めないため、Yahoo翻訳頼りですが。
・ワルシャワ郊外のOstrowce村で出生(1893)
・ウイーンの音楽アカデミーで学ぶ
・パリでジナと結婚
・日本滞在(1921-26)
・ロッテルダムで貿易の仕事に就く(1927)
・再婚(1930)
銀行の個人秘書、総領事、画家、教育者?(スコットランド)、靴屋(オランダ)など(時間の前後がよくわかりませんが)様々な仕事をしたそうです。
最後は老人ホームの共同創設者になって1976年、オランダのDriebergenで亡くなったということです。

投稿: 岡田ファン | 2015.12.20 11:27

余談:
関東大震災直後の10月13-14日にマヴォの展覧会が行われ、村山知義、高見沢路直、尾形亀之助、佐藤吉次、ルビエンスキーが出品しているとのこと(震災後初の展覧会)。色々なところに顔を出しており、綜合美術協会に参加したのも、好奇心のなせる業だったような気がします。

離日後の1927年には著書「東と西の間」(Między Wschodem a Zachodem : Japonja na straży Azji : dusza mistyczna Nipponu)を出しています。

また、Helena Čapkováさん(早稲田大学)が、来日中のルビエンスキについて報告を行っています。
Mystical spirit of Japan: Stefan Lubienski and transnational artistic networks in the 1920s Japan(2013年)
http://www.york.ac.uk/history-of-art/amsterdam-theosophy-conference/session6.htm

投稿: 岡田ファン | 2015.12.20 13:34

『あとらす』No.30(2014年7月)掲載の「皇后のタペストリー」(ハンス・ブリンクマン)
にルビエンスキー伯爵について書いてあります。

デパートでの展覧会がきっかけで建築家の堀越三郎と知り合ったとのこと。
堀越の設計した住宅を、ルビエンスキのタペストリーが飾り、評判になったそうです。新聞に取り上げられ、皇后からも注文があったとか。

オランダにステファン・ルビエンスキー財団があるそうです。

掲載誌は品切れとのことですが、西田書店様から情報提供をいただきました。
ありがとうございます。

投稿: 岡田ファン | 2016.05.12 22:08

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