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2011年1月の9件の記事

2011.01.21

オットー・ワーグナー

Wagner
Joseph August Luxの"Otto Wagner"(1914年)は、古書店で買うとかなり高価のはずですが、ネット(Open Library)で全文(独語)読めるとは…いい時代です。

この本については、菊池重郎氏が「岡田信一郎とゼシェッシオンとオットー・ワグナー」の中で言及しています。(Luxの解釈より、岡田説の方が正しい、といった感じで)

「芸術は必要にのみ従う」(ARTIS SOLA DOMINA NECESSITAS)というヴァーグナーの有名な標語は1893年のウィーン市都市計画コンペの応募案が初出らしく、また"Moderne Architektur"にも出てきます(リンク先の1902年版でP95)。Luxの著書では、P50、P138にこの言葉が引用されています。

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2011.01.18

歌舞伎座の音響8

Kabukiza0418
ちょうど、歌舞伎座とSabineについて、「YAB建築・音響設計」のブログに記事がありました。各地の芝居小屋について研究を重ねられてきた成果が掲載されています。私には内容は理解しきれませんが、労作ですね。

特に2009年に行った「歌舞伎座の音響調査」は貴重な記録と思います。

第13回全国芝居小屋会議」のページにはSabineの音響学について書かれています。(以下引用)

建築音響学の歴史は、ボストンシンフォニーホールの音響設計をしたSabineの残響理論に始まると言われています。竣工は1900年、今から約100年前です。(…) 実は、音響設計といっても残響時間しか考えていないボストンシンフォニーのすばらしさは、偶然の賜物でした。(…) ホールは残響時間だけではなく、直接音と、直接音から50ms~80ms以内に到来する初期反射音、それに側方の反射音が非常に重要と言うことがやっと1960年代にわかってきました。日本では1957年の杉並公会堂以来、たくさんの多目的ホールができ、1961年の東京文化会館で1つの技術的なピークを迎えました。

また、「好ましい豊かな響き」を要求される「残響の長いホール」はヨーロッパの音楽向きであり、芝居小屋の場合とは異なるということです。(同様の話は歌舞伎座の音響2でも出ていました)

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2011.01.17

歌舞伎座の音響7

歌舞伎座の音響4への補足)

内藤多仲の自伝「建築と人生」の中に音響学の発達に関わる記述があったので引用しておきます。

一九一七年、私がM・I・T(ボストン工科大学)に留学時代、ハーバード大学にW・Cセービン教授(故人)を訪問したことがある。(…)そのとき「建築音響学」の話がたいへん興味が深かったので、私は大学へのお土産のつもりで、スライド数十枚と論文集をもらって帰国した。これが日本に初めて音響学の導入となったわけである。これは電気音響専門の黒川教授に贈ったのである。(…)
その後、早大の黒川兼三郎教授(電気工学科)が渡米され、ハーバードやM・I・Tに留学中、音響方面の研究を進められたのがきっかけとなり、同教授の帰国後、大正十二年ごろから、建築科で、新設の建築音響学の講義が始められたのである。黒川教授のバトンを佐藤武夫氏が引き継いで、音響の実験的研究という新境地を開いた。

セービン教授とは、ボストンシンフォニーホール(1900年)の音響設計をしたことで知られるウォーレス・クレメント・セイビン(Wallace Clement Sabine)です。(Wikipediaに項目あり)

内藤の言うところに補足しつつ、年代を整理しておくと…。

1918年5月 内藤が帰国、Sabine教授の資料を持ち帰る → 黒川兼三郎に贈る(黒川は1916年早稲田の電気工学科を卒業した新進の学者。1917年に助教授か?)
1918年8月 黒川がアメリカ留学に出発
1921年1月 黒川が帰国
1921年11月 歌舞伎座焼失 → 岡田信一郎の設計により再建することが決まる
1922年6月 歌舞伎座着工(大林組施工)
1923年9月 関東大震災により工事中断
1924年12月 歌舞伎座竣工(翌年1月開場)

内藤は歌舞伎座の構造設計を担当していることでもあり、同学の岡田がSabineの音響学を全く知らなかったとは考えにくいと思います。
また、黒川兼三郎が学んできた最先端の音響学が、歌舞伎座の設計に採り入れられた可能性もあるのでは…。

※W.C.Sabineは1919年1月に死去し(従弟のP.E.Sabineが研究を引き継いだ由)、論文集"Collected papers on acoustics"が1922年に刊行された。同書は1900-1915年に発表した論文をまとめたもので、内藤が持ち帰った資料と同内容であろう。
※佐藤武夫は1924年に早稲田の建築科を卒業、同年助教授に就任。はじめは劇場史の研究をしており、大隈講堂の設計に関わるようになって、音響学に取り組むようになったとのこと、

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2011.01.15

ルビエンスキー

以前に「綜合美術協会」の項目でルビエンスキーのことにふれた。当時はどういう人物なのか全くわからなかったが、「内田魯庵山脈」の中に「ルビエンスキ伯爵」が登場していた。

「ルビエンスキ伯爵」が描いた幻想的なエッチングが同書(下 P77)に掲載されている。これは三田平凡寺が主催する趣味の会「我楽他宗」の機関誌「趣味と平凡」17号(1923年3月発行)の口絵で、ルビエンスキーは「我楽他宗」に参加していたという。
それで再度調べてみたのだが、不明な点がまだ多く、ご存知の方にはぜひご教示を願いたい。

ステファン・ルビエンスキーはポーランドの伯爵家出身という。ウィーン大学で政治学を学んだ。その後、「倫敦や巴里の外交場裡に起ち」(外交官だったのか?)「官を辞して伊太利に旅を続け日本に来る様になつた」(1922.7.6朝日新聞)というのだが、この辺の経過がすっきりしない、ポーランドは第一次大戦後に共和国となって身分制度も廃止されたというが、その関係だろうか。
ジナ夫人は、パリで哲学を学び、第一次世界大戦の際は赤十字の救護班に入り、その後ロシアに行きスパイに間違われたこともあるという経歴の持ち主である。

夫妻が日本に来たのは1921年の春(?)である。2人とも芸術味豊かであり、社交的な性格だったようだ。来日以来、堀越三郎(=「明治初期の洋風建築」の著者か?)が後援をしていたという。

1922年3月、ルビエンスキーは平和記念博覧会の美術館に自作のじゅうたん2点を出展して注目を集めた。同年7月には星製薬を会場にデッサンやじゅうたんの作品展を開いた。

さらに12月、ルビエンスキーは青山の自宅で各国の外交官らの集まりを主催した。フランス大使クロ-デルやポーランド公使館職員、来日中のビアード博士らが出席し、建築家レーモンドの講話などがあったという(1922.12.28-29朝日新聞)。
また、1925年の記事によれば、当時借りていた茗荷谷の部屋で、毎週水曜日夜にジナ夫人を中心にした談話会を開いており、大学生や音楽家、美術家らが参加して芸術談義をしていたという(1925.3.1朝日新聞夕刊)。さながらフランス上流階級のサロンを思わせる。
(高浜虚子の次男で音楽家の池内友次郎は、1924年に慶応大学に入学し、その頃ルビエンスキーから和声学を学んだということである)

このように、当時ルビエンスキー夫妻は話題の人であり、しばしば新聞ネタにもなった。

芸術だけで生計を立てるのは難しかったのか、関東大震災後、ルビエンスキーは貿易会社に勤めていたという(1926.8.1読売)。
1926年3月、夫人は単身、ポーランドへ帰ることになった。送別会では、「スイスのダルクローズに会いたい」「日本と欧州の文化交流の機関を作りたい」と抱負を述べていた。
(夫人はジュネーブで新渡戸稲造とともに日本の紹介に尽力したという話もある。新渡戸は1920年5月から1926年12月まで国際連盟事務局次長に就任していた。)
ルビエンスキーはしばらく日本に残っていたが、同年8月に突然、帰国してしまった。「数年後には再来日したい」と語っていたということだが、何があったのだろうか。その後の夫妻の消息もよくわからない。

ルビエンスキーの活動は、大正期の国際的でリベラルな雰囲気をよく示すものだろう。

※当時の新聞では「ルビエンスキー」という表記が多いこと、尚智庵氏のサイトを参照し、表記を「ルビエンスキー」にしました。

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2011.01.14

アンヂェラス

Anjera
浅草のオレンジ通りにあるレトロな喫茶店です。
昭和21年創業ということですが、建物も当時のものなのかどうか?

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2011.01.12

内田魯庵山脈

Roan


山口昌男氏の「内田魯庵山脈」には以前から興味を持っていたが、値段も高いし(6,930円)、重たそうだし、と手を出さないでいるうちに絶版になってしまったようだ。それが最近、文庫で読lめるようになったのは有難いことである。(製本がよくない点は不満)

内田魯庵は若い頃に建築家を目指していたことがあるらしく、また山口氏も建築に興味を持っているようである。いくつか建築がらみのエピソードが出てくるので、羅列しておこう。

○北海道、樺太の探検をはじめ、全国を旅したことで知られる松浦武四郎が、各地の由緒ある古材を集めて、一畳敷の書斎を作った。魯庵もこの建物のことを随筆に書いている。「一畳敷」は神田の松浦邸から麻布の徳川邸(南葵文庫)に移築されるなど転々とし、現在は国際基督教大学の施設になっている。(上 P145-157、170、237、358、365-368)

○我楽他宗の三田平凡寺のこと。本名は三田林蔵で、屋根裏に様々な珍宝をコレクションし、「趣味山平凡寺」と号し、趣味蒐集の仲間を集めて、「我楽他宗」と称した。我楽他宗は、殿様(富山の松平氏)、医者、芸者、美術家、鳶職、染師、菓子屋、女優、料亭、くず屋と多種多様な顔ぶれであった。平凡寺の娘は夏目漱石の長男に嫁いだ。漫画家・夏目房之介氏は漱石・平凡寺の孫である。 (下 P69-80)

○我楽他宗には外国人もおり、建築家レーモンドも参加していた。まずレーモンドの妻が平凡寺から絵画や習字を習い、レーモンドも我楽他宗の集まりに出席し、墨絵を学んだ。やがて夫婦で会員に加わり、「馬」を蒐集することになった。これは関東大震災前のことである。 (下 P80-84、88-90)
※山口氏は、日本近代建築史上有名な「レーモンド自邸」を平凡寺ら一行が訪問した、として大正12年6月の記事(同 P80)を引用しているが、誤りであろう。同記事には「品川レーモンド氏の新宅」とあるが、「自邸」があったのは赤坂の霊南坂であるし、建てられたのも震災後の大正13年である。

○レーモンドについて、山口氏はかなりのページを費やしており、後藤新平、星一との関わりなどを記している。また、第二次世界大戦後に手がけた国際基督教大学のキャンパス計画が挫折したことを惜しんでいる。(同 P87-98)

○山口氏は高崎の哲学堂準備の会で井上房一郎に会っている(1980年代?)。かつて井上は我楽他宗に出入りしていたらしい。(同 P98-99)

しかし次から次へと聞いたこともない人物が登場するのはいいとして、肝心の魯庵が中々出てこないのには驚いた。タイトルは「山脈」なのに、最後の方では「水脈」(下 P431)になってしまうのも不思議なことである。
柳田國男批判の部分は面白いと思う。

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2011.01.07

護国院庫裏

Gokokuin
(前回記事の補足)
護国院の庫裏は岡田信一郎が設計した和風建築で、登録文化財です。
美術学校(東京芸大)のすぐ裏手なので、当時の正木校長を通して設計の依頼があった模様。

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2011.01.06

上野~浅草

Kaneiji2
寛永寺本堂。かつての本堂は今の大噴水の付近にあったそうですが、維新の際、上野戦争で焼失しました。位置も変わり、今の建物は、川越喜多院の本地堂を移築したもの(神仏分離で不要になったのか…)。
これも中々立派な建物ではありますが、かつての伽藍はもっと壮麗なものだったであろう、と想像。
正月2日・3日は、東博のチケットを持って行くと中を拝見できるようになってました。

Kaneijiyo
寛永寺幼稚園の建物も戦前モノのようです。

Gokokuin2
寛永寺の子院、護国院。大黒天をまつっており、谷中七福神の一つ。庶民信仰的な雰囲気です。

Azumabashi
地下鉄で浅草に回り、浅草歌舞伎でも見るか、と甘く考えていたところ、全席完売で入れず。
吾妻橋から見たウン○ビル(スーパードライホール)とスカイツリーの取り合わせは何だかシュールな感じでした。

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2011.01.03

謹賀新年2011

Nijubasi2
今年もどうぞよろしく。昭和も20世紀もどんどん遠ざかりますね…。
以前にも載せましたが…二重橋越しに眺める明治生命館。

Sumituin2
旧枢密院はまだ工事が続いています。(2年前の記事)

Tokyoeki
東京駅は、ドーム頂上に金物(避雷針?)も付けられ、順調に復原工事が進んでいる模様。
物議をかもした旧中央郵便局はどういう仕上がりになることか。

Hinokizu
東京国立博物館で桧図を拝見しました。今は多くの作品が撮影OKになってるようです。(フラッシュは必ずオフにしましょう)


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