2012.02.14

ONS061大阪高島屋(続)

1924年に妻や弟と大阪へ立ち寄った岡田が、高島屋を訪れて感慨にふけった話は、「関西への旅」の項で引用した。岡田の率直な心情が表れた文章である。

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ところで、南海ビル(南海店)の方が1930年に第1期竣工、1932年に全館竣工し、岡田設計のビルは「長堀店」となった。しばらくは南海店・長堀店の両方が百貨店に使用され、それぞれに特徴を持たせて営業していたという。大きな催しは長堀店で行われ、四天王寺展などの会場にもなっている。

しかし統制経済の影響もあって統合されることになり、1939年(昭和14年)1月、長堀店は閉店となった。(従って高島屋として使われたのは実質16年ほどの間である)

閉店とともに長堀店の土地建物は日立製作所に譲渡された。
その後、大阪空襲(1945年)による被害を受けたということであるが、どの程度の被害だったのだろうか。

1954年(昭和29年)、丸善石油が本社ビルとして取得したが、当時はまだ外観に百貨店当時の面影を残していたようである。(「目で見る大阪市の100年」に不鮮明ながら写真あり)
しかし、その後の改修工事により、外観はルーバーで覆われ、かつての面影は全く無くなった。

※取壊しの際のことは、以前の記事にも少々書きましたが、TAKATAKATAKAさんのブログに「長堀高島屋解体記録」があり、詳細に記録されています。

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2012.02.13

ONS060大阪高島屋

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大阪の高島屋と言えば、南海電鉄なんば駅(南海ビル)の店舗が思い浮ぶ。1932年に竣工したクラシックなビル(設計久野節)で都市建築の佳品と言えるが、ここで述べるのは、1922年(大正11年)に建てられ、昭和10年代まで使われた岡田信一郎設計によるゴシック様式のビルの方である。
(竣工時は「高島屋呉服店大阪支店」が正式名か)

高島屋呉服店は、1919年(大正8年)8月に株式会社化したのを機に、大阪店を高層ビル化し、本格的な百貨店とすることを企てた。当時の大阪店(心斎橋)は敷地が狭かったため、入札に出ていた長堀橋南詰の旧南区役所跡地を手に入れた(同年11月)。
また、飯田新三郎・細原和一の2名が翌年4月から11月にかけて欧米の百貨店事情の視察に出ている。

岡田が設計を依頼された経緯ははっきりしない。当時の岡田は大阪市公会堂のコンペに当選したことなどで、大阪でも名を知られていたかもしれないが、百貨店のような大規模な作品はまだ手掛けていない時期である。
1919年に心斎橋の大阪店が火災にあったときには、住友の技師、小川安一郎が再建工事を担当しているし、関西建築界で建築家を探すとなれば、岡田には頼まないであろう。

岡田と高島屋の接点を考えてみたのだが…。
高島屋の中で、従来からの呉服店から近代的な百貨店への転換を推進した中心人物が飯田直次郎である。直次郎は1912年に東京帝国大学経済学部を卒業しており、1884年(明治17年)生まれで岡田の1年下と年齢も近い。何かしら接点があったのかもしれない(想像)。
(直次郎は前当主・三代新七の子で、当時は高島屋の取締役。1942年に三代目社長に就任した。)

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大阪高島屋は、「地階附7階建、鉄筋コンクリート造タイル張 (延坪数)3,120坪」で、構造設計を内藤多仲が担当した。
起工は1921年5月で、竹中工務店の施工により、1922年(大正11年)9月に竣工し、10月に開店した。

岡田の設計図面では屋上に塔が見えるが、実際には塔は造られなかった。それにしてもなぜゴシック様式を採用したのだろうか。
当時の写真を見ると、まだ昔ながらの町屋風の建物が並ぶ中に、7階建てのビルがひときわ大きくそびえており、さぞ人目をひいたことと思われる。
ちなみに大正期の大阪は、三越が1917年(第1期)・1920年(第2期)、白木屋が1921年、大丸が1922年(第1期)・1925年(第2期)と、次々に高層ビル化していた時期にあたる。
このうち現存するのは大丸(心斎橋筋側の部分)のみである。(御堂筋に面したゴシック様式風の部分は1933年竣工)

「高島屋150年史」によると売場構成は次のとおり。

屋上 演芸場・遊戯場
7階 日用品・大食堂
6階 催し場・文具・雑貨・美術品
5階 洋服・家具服飾品
4階 雑貨・貴金属・装身具
3階 高級呉服
2階 実用呉服
1階 雑貨・化粧品
地階 食料品

現在のデパートとそれほど変わらないようであるが、大きく違うのは下足の扱いである。
「店内は上敷がしきつめてあってお客様は下足を預け 備えつけの赤鼻緒草履をはいて上り 靴の人にはカバーを着せた」(「高島屋135年史」)。長堀店で下足を廃止するのは昭和2年(1927年)3月という。
また、当時の平面図を見ると、1階に広い「御買上品御渡し所」があるので、会計はまとめて1階で行っていたようである。

面白いのは地下食料品売場で、毎朝7時から11時まで新鮮な野菜や魚、肉、乾物などを廉売し、「下駄履きのまゝお出入自由」だったらしい(以前の記事でも紹介)。
だが、平面図を眺めてみても、地下に行く客と、それ以外の客をどうさばいていたのか、今一つよくわからない。詳しい方のご教示をお願いしたい。
(立面図は「図面でみる都市建築の大正」より引用、写真は当時の絵はがき)

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2012.02.05

ONS059大阪市公会堂(続)

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■岡田の抗議?
実施設計は、大阪の辰野片岡事務所(実質的には片岡安)が行ったが、考えてみるとコンペで落選したはずの片岡が、岡田の当選案に変更を加えているのだから、妙な話である。
(辰野金吾にしてみれば、元々自分が設計するのが当然という意識なのだろう)

さすがに、岡田の当選案がいつの間にか(?)設計変更されていたことを問題視する意見があった。

○伝聞するところに拠れば、先頃大阪市公会堂事務所が、懸賞競技を以て募集したる建築図案は、其後当選者に対して協議を経ず、縦に大に改刪せられたりと。果して事実ならば、容易ならざる出来事なり。(美術週報)

○作品が他人の手で改悪せらるゝとは、痛ましいと云はうか嘆かはしいと云はうか初めの作家設計者に対しては誠に気の毒の次第で、先の名誉、今は却つて恥となる始末である。(…)斯の如きは折角芽ざして来た懸賞設計といふ事に取つて大なる厄であるのみならず、今後は応募する人もなくなり、建築界の由々しき大事であると思ふ。(建築画報)

○曾て大阪公会堂の建築施工に関し、某工学士は憤然抗議を申込みたることありと聞けり、施工者が設計者の技能を尊重せず、任意に設計図案を破壊し去るの妄挙に出でしが故と。(建築画報)

最後の引用文にあるように、岡田は実際に公会堂事務所(または辰野や片岡)への抗議に及んだのだろうか?

■松本与作の証言
当時、辰野葛西事務所(東京)にいた松本與作の聞き書きをもとにした「谷間の花が見えなかった時」に次のようにある。

ある日この岡田信一郎が辰野金吾の事務所へ、大阪中央公会堂の設計図案を携えてやってきた。(…)辰野はこの図案をみると直した方がよいと言い、二階の設計室で松本與作に修正を指示した。そして実際に完成したのはこの修正案の方である。このとき岡田信一郎は松本與作にこう話していたという。「先生が直された方が、やっぱりいいようだね」と。
はるか後年の回想であり、史料批判の問題はあるが、これが事実とすれば、岡田の目の前で当選案に修正が加えられたことになる。
だが、それ以上に実施設計や監理の段階でまったく関与できなかったことが残念だったに違いない。さすがの岡田も辰野金吾には逆らえず、諦めたのだろうか。論文「新日本の建築」で暗に辰野金吾を批判したのは岡田なりの抵抗だったのかもしれない。

松本は1890年(明治23年)9月生まれで岡田の7歳下である。1907年7月、18歳で夜学の工手学校を卒業したが、岡田は同年2月から同校の講師をしていたから、松本も知っていた可能性がある。
(写真は2008年9月撮影)

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2012.02.04

ONS058大阪市公会堂

大阪市中央公会堂の話題は既に議院建築コンペとの関連で出ているが、書き残した点を補足しておきたい。
(大阪市公会堂のコンペについては、以前、月刊岡田信一郎の第4号第15号にも書いた)

■公会堂が縮んだ…
岡田の当選案に対して、辰野金吾はいくつか注文を出した。例えば、岡田案では正面大アーチの左右に時計が付いていたのを、「停車場風」でよくない、などといった具合である。これらの点は、実施設計段階で変更された。

岡田案と実施設計の比較については、山形正昭氏論文「大阪市中央公会堂の建築」(芸術22号)に詳しいが、特に規模が縮小してしまった点は不思議な感じがする。(経費削減などのためだろうが…)
岡田案では、例えば正面の間口が60尺だったのが、実施設計では54尺と約1.8m縮んでしまったのである。

■公会堂のデザインソースは?
公会堂の様式は「ネオ・ルネサンス」とされることが多い(公式サイトにもそう書いてある)。
岡田自身は「様式は仏蘭西復興式を主とし、之に他の様式を加味しました」(建築ト装飾)、つまりフランス式のルネサンスと述べているが、ルネサンス様式の平明な表現というよりは、バロック様式のオペラ座のようにコテコテで、にぎやかな部分が目に付くと思う。

建築界の長老格、曽禰達蔵は、公会堂正面の大きなアーチが、岡田が設計に関与した警視庁のアーチに似ていると述べた。(建築雑誌557号)

建築史家も諸説を唱えている。
「図面で見る都市建築の明治」の解説文(鈴木博之氏)は、「もっともヴィクトリア朝的な建物のひとつ」であり(=ヴィクトリアン・ゴシック)、ロンドンにあるパレスシアター(1890年)やウエストミンスター大聖堂(1903年)がデザイン源のひとつではないか、としている。
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川道麟太郎氏(技苑97号)は堺市公会堂(1912年竣工、辰野片岡事務所設計)や、フランクフルト・アム・マイン駅(中央駅、1883年、Hottenrot & Eggert設計)を挙げている。
山形正昭氏(前掲論文)も同じく堺市公会堂、また、西澤泰彦氏は満州の撫順公会堂(1910年竣工、満鉄建築課設計)とのデザインの類似性を指摘している。
大阪市中央公会堂の大アーチは、そのままヴォールト屋根につながっており、その点ではフランクフルト中央駅に近いと思う。
いずれにしても、辰野金吾好みのデザインであったのだろう。
(画像は堺市公会堂、山形論文より引用)

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2012.02.01

ONS057岡田と議院建築

さて、議院建築をめぐってずいぶん寄り道をしたが、肝心の岡田信一郎との関わりを補足したい。

(1)「議院建築問題」をめぐる岡田自身の言動
明治の終わり頃には、議院建築問題がだいぶやかましくなっていた。岡田なども周りの若手建築家たちと気炎を上げていたことだろうが、岡田が議院建築に直接ふれた文章は意外に少なく、「音響問題より見たる議院建築」(1911年)ぐらいしかないようだ(以前の記事で引用したことあり)。
1910年におこわなれた討論会「我国将来の建築様式を如何にすべきや」は、議院建築問題から派生して行われたもので、岡田も参加したが、ここでも議院建築のことを直接論じてはいない。
(岡田は「和洋を問はず国民の思潮を基礎とし、(…)自分の思ふ所を直截明快に現はして差支ない、さうすれば将来の様式に近づくことが出来ると思ふのであります」などと述べた)

(2)議院建築コンペへの関わり
本来なら岡田が、大阪市公会堂の設計コンペに1等当選した勢いで議院建築のコンペにも挑み、1等を勝ち取ればよかったと思うのだが、どうも応募はしなかったようだ(?)。
当時のコンペの運営状況から、当選してもそのまま採用される訳ではなく、勝手にデザインを変更されたり不本意な扱いを受けかねないと思ったからだろうか。
このあたりが謎である。

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